蒸し暑い夏の夜にネオン街を通ると、必ず思い出す記憶がある。

あれは6年前の8月後半、麻布十番にあるデニーズ。午前2時半。悔しさと戸惑いの証拠が目から落っこちないように、腹立たしい程に明るいブラウンの机をじっと睨んでいた。この雫が落ちたら、裏切られた事を認めてしまうことになる。唯一のミッションは、メイクを決して崩さずに始発に乗り込むこと。

頻繁に時刻を確認するのは携帯ではなく、壁掛け時計。携帯を開くことはできない。連絡が来ていないことが分かってしまったら、動揺していよいよ我慢している感情が溢れ出てくる。あと1時間58分……。

待ち合わせ駅まで残り5駅となった電車の中で、彼から連絡がきた

「今はここに来ないでほしい」と、半年以上曖昧な関係を続けている彼から連絡が来たのは、待ち合わせ駅まで残り5駅となった電車の中だった。詳しい理由を聞く間もないまま、急いで麻布十番で降りて彼を待つことになった。1時間程してやって来た彼がした説明はこうだ――。

昔関係のあった女の子が、最近になってしつこく連絡を取ってきた。徐々に発言や行動がエスカレートし、今夜は彼に会えるまでホテルのロビーで待ち続けると連絡が来た。だから、部屋に戻れずにいる――。「ストーカーだよ、全く。だから僕たちの選択肢は2つ。1つは他のホテルをとる。2つ目は僕がホテルに行って彼女と話をつけ、話がついたら君を呼ぶ。どちらがベストか考えたい」と彼は言った。

「あなたは彼女に何をしたの?」と事のあらましを聞いて、自然と私の口から出た一言だった。彼は動揺した様子だ。「待って待って。何をしたってどういうこと?どうして君は僕の味方じゃなくて、彼女側に立つの?」と呆れて、半笑いの彼。

「阿呆はあなたでしょ?」と、私は胸の内で吐き捨てる。日本に戻って程ないあなたのステイ先は、風の噂で知られたっていうの? どうであっても大好きなあなたを信じる。

でも、その彼女にも私のことを同じように言っている可能性は、私自身のために否定しないでおく。あなたのミスでダブルブッキングかもしれないって、頭の隅にくっきり残しておく。今夜でなくてもいつか訪れる別れの時に、私の背中を後押ししてくれるかもしれないから。

彼は自分じゃこの状況を終わらせられないから、私が終わらせよう

その後もため息をつきながら、「どうかしてるよ」とか何とか疲弊困憊を露呈する彼を見つめながら、ふと、ロビーで待つ彼女のことを思った。こうしている今も、彼女はホテル側からの冷ややかな視線に耐えながら、ひたすら彼の連絡を待っている。私が彼女に対して抱く感情は、同情でも敵意でもなく“共感”。

時刻は午前2時。終わらせよう。この人は自分じゃ終わらせられない。私は「ホテルに戻りなよ。私も今夜は家に帰る。これは私の問題じゃないし、今私が入るべきでもない。落ち着いたら連絡して」と言った。「なんだかお腹すいちゃったから、何か食べてから適当に帰るわー」なんて冗談を言いながら彼を追い出す。この場所から、そして私の人生から。

「ごめんね。今夜一緒に君といることだけが望みなのに」彼はそう言って、おでこにキスして出て行った。

そして、残った感情は解放感――だったら良かったのに。目が潤んで視界がぼやけてくる。ずるいよね、あなたは。本当は前者の選択肢を選んでほしかった。もはや即決で、このファミリー仕様の馬鹿みたいに明るい空間から出て、この世界には2人しかいないと勘違いさせる薄暗い部屋でまどろみたかった。

そしたら、強がって物分かりのいい女なんて演じなかったのに。ホテルで待ち続けるもう一人の不幸せな女性に、思いを馳せたりしなかったのに。

今私を苦しくさせるのは裏切られた事実よりも、どんな状況であれ、私はこの人が大好きでたまらないことに気づいてしまったこと。そして、その路が出口のないトンネルだと知っている。だから、この先も訪れる裏切りを見越して絶望しているのだ。

彼の裏切りを通して、自分を見つめることができた。少しの痛みと共に

6年後の今、深夜のネオン街に身を置くことはない。そもそも昨年から、深夜まで繁華街にいることはほぼ不可能な世の中だ。それでも、この記憶は何年経っても色褪せないことを知っている。だって、あの裏切りもまた彼の魅力だったから。まるで哲学を学んでいるようで、あなたを通して私を見つめることができたから。少しの痛みと一緒ではあるが。

結局あの日、彼から全てが終わったと報告が来たのは、お昼前だった。既読無視をする代わりに、私が送ったのは「お疲れ様」。

あの夜彼からもらった裏切りは、翌朝の私には影響しなかった。でも、確実に私の中に何かを植えた。そして6年経った今、私の一部になっている。いつの時代も痛みを引き連れて生き、そして人は強く美しくなる。

あの言葉は彼にではなく、私に宛てた言葉。21歳の私、「お疲れ様」。