私は俗に言うアセクシャルというものだ。でも、それは医者に診断書を貰った訳でも、専門家に見てもらった訳でもない。だからある日突然、恋愛に目覚めることも起こると思う。そう思って、アセクシャルというものと共存している。

恋愛がしたくない、そういう訳ではないのだ。浴衣で花火大会に行ったり、クリスマスにイルミネーションを見に行ったり、したくない訳ではない。でも、自分がいざその立場に立つと心がむず痒くなって、この場から逃げ去りたくなってしまうのだ。

同じ学校だった彼と卒業後にSNSを通じて仲良くなったが…

以前、こんな私でも好意を持ってくれる人がいた。同じ学校だったが、一言も会話はしたことない。卒業後にSNSのDMで仲良くなって、相談事に乗っているうちに会うことになった。

あなたが作ったクッキーが食べたいから会おう、今思うと変な口実だったが、その時私は単純にそのままの意味で受け取って、前日から生地を仕込み、手作りクッキーを持って、待ち合わせの私の最寄りまで走った。

彼はとても紳士だった。走って汗をかいた私にハンカチを差し出してくれたり、私が箸を落としたら拾ってくれたり、ドアを開けてくれたり……。至れり尽くせりで、男勝りな私にとって、された事のない経験だった。

そうやって優しくされるうちに、自分の心の中で「嬉しい」と思っていないことに気がついた。どちらかというと、「申し訳ない、ごめんね」という気持ちの方が強かった。

ショッピングモールを歩き続け、近くの海に行った。 そこでは、明らかに相手の緊張が伝わってきた。浜辺を二人で、少し無言になりながら、ゆっくりゆっくり時間をかけて歩いた。

自意識過剰なのかもしれないが、あそこで彼は告白しようとしたのではないかと思う。それを感じてしまった私は、なんの意味のない会話を永遠と続けていた。その隙を与えないように。

彼氏彼女になるといわれると胸焼けがして違和感を感じ、知りたかった

嫌いだった訳ではない、した事のない経験をさせてくれたし、話も楽しかった。だけど、彼氏彼女になるといわれると胸焼けがした。違うそうじゃない。そうなりたい訳じゃない。でも嫌いではない。そういった考えを繰り返して、この気持ちに名前をつけたいと思うようになった。

“なんとかセクシャル”、聞いたことはあった。同性愛だって自分は理解していたし、応援したいと思っていた。まさか自分に“なんとかセクシャル”と名前がつくなんて思っていなかったが、目に止まったセクシャル診断をやってみたら、“アセクシャル”と見たこともないカタカナが出てきた。見たこともなかったが、意味を調べるとずっとずっとこれを探していたような気がしてきた。

でも、おかしい。私は昔好きな人だって出来てたはずだ。幼稚園の時、出席番号が同じだった彼、ずっと一緒にいた幼馴染だって、私は絶対に好きだった。

でも、大人になってよく考えると、あれは男友達としての好きだったのかなと思う。ただの仲良し、友達としての好きと恋人としての好きは違うと、恋愛経験豊富な友達が言っていた。多分私は恋人としての好きが存在しないんだ。

私は恋が始まらないのではなく、「したくてもできない」のだ

恋が始まらない、いや始まれないのだ。「したくてもできない」と言うのがぴったりだろう。こんな人がいるんだから、皆は恋愛ができていることをもっと喜んでいいと思う。カップルのイザコザも片思い中の悩みだって、私からすれば贅沢な悩みだ。

だからこそ、妥協した恋愛はしてほしくない。性欲に流された恋愛なんてしないでほしい。自分の体を大切にして欲しい。彼氏のために、彼女のために、そう思うことは微笑ましいがやりすぎは気をつけて欲しい。

今の世の中は、色んな恋愛のかたちがある。だけど根本の根本は、男女、異性同士の恋愛だ。それは何年たっても変わらない。異性同士じゃないと血の繋がった子供は生まれない。ただそれを踏まえた上で、沢山色んな形の恋愛をしていくべきだと思う。

恋愛に何が良くて何が悪い、といった正解はない。自分自身で新しい恋愛のかたちを見つけるのもいいと思う。

最後に、もっと世界が愛に満ちた素晴らしい世界になりますように。そして、いつか私に恋をするという気持ちを分からせてくれる運命の人に出会えますように。