「いつもと違う休日」が私を解放してくれた。それは本来、私が最も望んでいた姿だった。
朝の貴重な時間を使うのは、ゆとりを持ってその日の自分をつくるため
家を出る4時間前に起きて、準備をする。
「ちゃんとして出かける」。これがルールだった。
それぞれの支度にかかる時間を算出して、導き出した4という数字であって、特別な意味はない。
シャワーを浴びて、髪の毛を乾かして、整えて、お化粧をする。
そして、ご飯を食べて、天気予報・SNSをチェックして、洋服のコーディネートを決める。
ゆとりを持ってその日の自分をつくることに朝の貴重な時間を使う。
このルールは1人暮らしをしてからもう5年以上は続いていた。
それが当たり前になっていたし、これが普通だと思っていた。
でも既に、ゴールテープは用意されていたのかもしれない。
ルーティン化していた朝のルールも、年々、そして日によって仕上がりに手抜きをする自分にも気付いてはいたが、見て見ぬフリをしていた。
どんなに素敵な洋服でも、探せばほつれぐらいあるものでしょ?と言わんばかりに。
なあなあになっていたタイミングで、突然、このルールは一旦停止、長期見合わせを余儀なくされる事態が訪れた。
なぜなら、外出する機会がほぼゼロになって、取り繕わなくてもよくなったから。
そうしたら、不思議なことに、なぜか私の心は軽くなった。
激変する日常で「みっともない」の声は、まやかしだと気付いた
朝起きて、パジャマのゆるさをまとったままゴロゴロする。髪の毛も手ぐしで簡単にまとめる。
好きなタイミングでご飯を食べて、猫と一緒にヨガをする。
SNSに目を通すことは必要不可欠でなく、不要不急のものだと気がついた。
着飾ることは当たり前で、それが自分の中で普通になっていた。
そうしないと、「みっともない」とどこからか声が聞こえるような気がした。
でも、激変した日常が、そんな声はまやかしだったのだと気付かせてくれた。
「常に何かを足してアップデートしていかないと」と背中をど突く生き急ぎ成分が、何かが不足していると焦らせる「自分には何もない病」を発症させていることにも気付かずに。
足りない、足りないともがき、自分にアイテムや情報をつけ足すことで、応急処置程度でほつれを直した気になって、ニセの自信をつけて満足していたのだ。
ときには、足を止めて、自分のバランスを確認することも大切
今までやっていた朝のルールが足すことなら、それをやらなくなったら何かが引かれてマイナスになるのか、というとそうでもない。
ありのままでいられることは、プラマイゼロなのではないか。
きっと、どちらかに偏りすぎていると、正解は一体何なのかを求め、彷徨い歩く羽目になったり、自分の本音も見えずらくなる。
私は、何もしないことで心のバランスをうまく取れるタイプの人間なのだとわかった。
時には、いつもやっていることをやめて、自分のバランスを確認することも大切なのかな、と。
今は充電期間だと、少しゆるりと過ごしてみる「いつもと違う休日」も時には必要なのかもしれません。