いつでも1番になれた負けず嫌いの私が井の中の蛙に気付いた大学時代

姉が2人いる三姉妹の末っ子。昔から私は負けず嫌いだった。

一緒に始めた習い事も、いつのまにか3人の中で私が1番になっていたし、2人がやらないスポーツにも打ち込んで、学級委員、執行部、リーダー、いわゆる”陽キャラ”の仲間入りをした学生時代。

毎日がとにかく忙しくて、余裕はなくて、でも自分のやりたいことには貪欲に頑張る、そんな自分が好きだった。キラキラした、堂々とした自分が大好きだった。
努力すれば必ず結果はついてきて、誰にも負けない、1番になれる、そんなふうに暗示をかけていた気がする。

そんな私が井の中の蛙だったことに気づいたのは大学生の時。

大して勉強しなくても人並み以上の点数が取れた試験も、なぜかうまくいかなくなった。人前で話すのも苦手になった。人付き合いが面倒になった。周りの子の点数をみて、焦り出すようになった。いつも私の上には誰がいて、毎日焦って。
そこで疑問を持った。

周りばかり気にしてる私って、本当は何になりたいんだ?
わたしは誰のために頑張ってきた???
遅れてきたモラトリアム、そんな言葉が似合う。

承認欲求の塊だった私。本当の自分が空っぽだったと気付き、軽く絶望

思えば今まで、自分に嘘をついていた気がする。
学生時代、私はキラキラした理想の自分、誰にも負けたくなくて必死で、誰かからの評価ばかり気にしていた気がした。本当は誰かにできない子だねって言われることが怖くて、ただ死ぬほど臆病だった。努力するのは好きだったけど、自分のための努力ってよりかは、頑張ることで褒められるのが好きだった。寂しいことに承認欲求の塊だった。

そうやって、自分を塗り固めた私は、いつのまにか自分のホントの心をどこかに置いてきたらしい。だから「理想の自分」が突っ走った私は意外と空っぽだった。それに気づいた時、軽く絶望だった。

そんな自分に気づいたからというものの、ものすごく精神的に病んだ時期が多くなった。
できない自分に落ち込んで、でも誰かのために頑張ってきた自分は、自分のために努力できなくて。それに更に落ち込んだ。

今までキラキラな自分に紛れて日陰にいた“ホント自分”はちゃんと育たなかったらしい。仕方のないことか。

自分のために生きることで、未熟な心が体に追いつく日がきますように

私は落ち込む度に人は人、とよくアドバイスをされた。比べて落ち込むなって。そんなのわかってるよと何度も心が叫んだ。でもキラキラした私も同時に叫ぶのだ。

「みてなさい、もっと頑張るんだから」って。

そうやって私の中の二つの心のバランスが取れなくなって、また病んでしまうのだ。
でもとことん落ちこんだ末に、“ホントの自分”の心が、変わろうと少しずつ歩き出している気がした。

今でも昔のキラキラした理想の自分が見栄を張って現れる時もあるけれど、今はただ、自分が自分のために生きてくことで、未熟な心がわたしの体に追いつく日が来ればいいなと思っている。

努力は自分のためにできればそれでいいと思うようになった。自分に優しくなって、大事にしようと思うようになれた。
私はまだ、絶賛モラトリアム中だ。