誰かを傷つけて幸せになれるはずはない。どこかでそう思っていたし、後ろめたさは自分にもあった。

でも、互いの気持ちさえ通じていればそれでいい。鬱陶しい第三者の存在など、気にする必要はないと自分に言い聞かせてきた。

元カノに会った彼は「夏美が現れなければよかったのに」と言った

その日、いつになく、性欲に支配されていた私たちは、気づけば敷きっぱなしの布団になだれ込み、互いの身体を貪り合っていた。

一通りことを終えたあと、ふいに口走った元カノの名前が事態を暗転させた。それまで饒舌に話していたKの表情が曇り始めたとき、言った傍から後悔したが、もう手遅れだった。すっかり過去の女として葬っていたのは、私だけだったのか。予想外の展開に動揺し、思わず問い正していた。

「実は1週間前に会ってた」とKは言った。留学先から帰国した元カノに、あくまで別れ話を済ませるつもりで会っていたというが、久方ぶりの再会は、かえって情を生んでしまったらしい。

「本当はあっちのこともまだ好きなのかもしれない」「夏美が現れなければよかったのに」と次々と出てくる戯言に、開いた口が塞がらなかった。先程まで抱擁していたはずの身体は、手も足も離れ、こちらから見えるのはKの頼りない背中だけだった。

しばらく、重い沈黙が続き、彼は言った。「価値の低い女だな」と。冷たい、別人のような声だった。いや、それが実際のKなのかもしれなかった。

大きな勘違いをしていたのは私の方だった。数分前まで火照っていた身体が、嘘のように冷たくなっていた。侮辱されているというのに、怒りや悲しみが溢れていいはずなのに、声が出て来なかった。

「……ごめん」と、我に返ったように言うKの声には、どこか諦めが入り交じっていた。

翌日届いた彼からのメッセージに、再び自らの愚かさを感じ恥じた

翌日、LINEに届いていた長文は、“裏切り”以外の何ものでもなかった。

「どうして何をしても逃げてるとしか思えないか、理由がやっとわかった。俺は、『誰と居たいか』ということからずっと逃げてたんだな。一緒に居たい人より、一緒に居られる人といる方が簡単に幸せになれる。

一緒に居たい人は別にいた。そもそも向き合うべき人が夏美じゃなかった。夏美といると承認欲求かな、自分の欲がものすごく満たされる。優しくすると、ちゃんと反応してくれる。ここに居ていいんだって思わせてくれる。

でも、俺の優しさは核心ついた優しさじゃない。ただのその場しのぎ。付け焼刃。そんなこと繰り返してても、きっと何の意味もない。

今日のことがあって、すぐ、これが一過性のものなのかもしれないっていう想いはある。だけど、これを伝えることに対して責任を持つ覚悟でいる。あとで悔んだりしても、絶対に撤回しない。『別れよう』これが本当に最後の撤回」と。

あれだけのことを言われたのに、別れるなんて想像もしていなかった私は、再び自らの愚かさを恥じた。彼氏だと思い込んでいたKは、虚像だった。元カノが留学している間の穴埋め役、一時の箸休めが私だった。自分の臓器を丸ごと持っていかれたような、圧倒的な欠乏が身体中を覆い、時間が止まった。

彼のダメな部分に目をつぶりながらも信じていた。でも、嘘だったんだ

もう何も話すことはない。会う気力もない。そう思っていたはずなのに、2日も経過すると抑制が効かなくなっていた。最後に一度だけ、Kの口から本心を聞きたい。会って話をしたい。最低限のメッセージを送り合い、3日後の夜、葛西臨海公園で落ち合った。

半年前、はじめて2人の想いを確認し合った場所を、終わりの地に選んだのは私だった。日中、晴れていれば多くの家族連れで賑わう公園も、空と海の青がなければ心もとない。太陽が沈んだあとの暗闇と、次第に強まる雨の音が、憂鬱な心に似つかわしかった。

「M(元カノ)のそばに居られるようになりたい。Mと一緒にいたいって考えたとき、最初にどうするかっていったら、こうするしかなかった」そう切り出したKは、懺悔とともに元カノとの思い出話を語り出し、いかに彼女が大切な存在か気づいたのだと、吐露してきた。

相手の話を十分に聞き終えたあとで、私は畳み掛けるように、これまでの義憤を晴らしてやった。「人を何だと思ってるのか。『まっすぐな夏美が好きだ』と言いながら、その思いを容易くむげにして、こんな形で終わらせるなんて」「何から逃げてるって、自分から逃げてるだけじゃないの」「『夏美の笑顔が好き、離さない、夏美じゃなきゃだめだ、真剣に考えてる、誠実になりたい、変わりたい、嘘をつかなくなった』って言ってくれたから、私は信じてきた。ダメな部分に目をつぶりながら。でも、それも『ふりをしていた』だけなんだね」と。

早口でまくし立てながら、お願いだから否定してほしいと願っていたが、ついにその瞬間は訪れなかった。「今まで言った全てのことが嘘になる。ごめんなさい」Kから出てきたのは、その一言だけだった。

もっと違う設定で、もっと違う関係で出会えたら、何か変わっていたのだろうか。そう願っても無駄だった。

グッバイ。Pretender(ふりをする人)との恋は、こうして儚く終わりを迎えた。たったひとつ確かなことがあるとするのならば、それでも彼を嫌いになれない、私という人間の救いようのなさだった。