「せんちゃん、『ごめんね』じゃなくて『ありがとう』、でいいんだよ。」
初めてできた彼氏に振られ、自信を無くし、落ち込んでいる私の泣き言を聞いてくれた研究会の同期の言葉だ。
(今思い返せばだいぶ頭にくる振られ方だったので、今度会ったときには三言くらい言い返したいくらいだ)
それ以降、『ごめんね』を『ありがとう』に切り替える場面が多くなったように感じる。
しかし、『ありがとう』に切り替えられない、13年来、心にとどめた『ごめんね』がある。

文化の違いに馴染めない帰国子女の私に襲いかかった「いじめ」

幼少期を海外で過ごし、日本に帰国し中高一貫校に入学した私は、なかなか日本の文化、そして「組織」というものになじめないでいた。
親の強い要望あってテニス部に入部したはいいものの、悲惨な中学1年生を迎えることとなった。

入部してすぐに同期のボス的存在に目を付けられ、同期とまったく仲良くなれず、孤立をしていた。
「いじめ」と呼べるほど深刻なものではなかったかもしれないが、
元々運動神経が悪く、テニスも持久走も最下位だったため、ボス同期からしたらいいうっ憤晴らしになっていたのだろう。
お弁当も一人、帰り道も時間をずらし、ペアを組むとなったらだいたい余り、話しかけても無視をされ、休憩中もいつも先輩にくっついて行動をしていた。

ある日「辞めたい」が「死にたい」に変わった瞬間があった。
さすがにまずいと思い、顧問の所に向かったが、結局、不在で退部届を提出できなかったこともあった。

この苦しい時間は1年近く続いた。
「あぁ、こんな状況があと2年も続くのかな」と、どん底にいた私を救ってくれたのが、親友のKである。

見て見ぬふりをしてしまった、恩人で親友のKへの嫌がらせ

Kとはたまたま部活帰りに帰りの電車が一緒になった。
私と一緒に帰るだなんて、Kもかわいそうだな、申し訳ないなといった空気を断ち切るかのように、Kはいろいろと話しかけてくれた。
(後々話を聞いたとき、「こいつ意外とおもしろい!」と感じたそうで。)
以来Kと一緒に行動することが増え、帰り道もふざけあっていると、自然と他の同期も寄ってきた。
先輩に助けを求めることもなくなり、元々テニスが上手であったKと組んだダブルスで戦績を残すようになってから、「いじめ」は終わったのであった。

そんなある日、Kが早退した部室ではKの悪口が飛び交っていた。
「ちょっとメール送ってこらしめてやろうよ」とボスがガラケーで捨てアドレスを作り、長文の悪口が書かれたメールをKに送ったのであった。
私は、何も言えなかった。誰よりも悪口を言われること、孤立することは知っていたのに。
もう二度とあのような孤立する思いはしたくない、と当時の自分に戻るのが怖くて、見て見ぬふりをしてしまった。
私自身を「いじめ」から解放してくれたKを裏切ってしまった。

翌朝、Kから「このアドレス知ってる?」と訊かれたが、「知らない」と答えたような気がする。が、それが嘘であったことも、犯人がボス同期であったこともKは見抜いてたと思う。
それでも、何もなかったかのように部活に足を運び、普段通りにKは振舞っていた。

今でも親友のKへ伝えたい、13年前から言えないままの「ごめんね」

その後さまざまな出来事があったが、さまざまな悪事が露呈し、ボス同期は退部することとなった。
ようやく私達の代は、人間関係に悩まされることなく、純粋に結果を求め部活に励める環境下で残りの時間を過ごすことができた。
そして、引退し、13年経った今、Kも私も社会人として、当時よりも大人になったように感じる。

私はKの芯の強さに救われたのである。「命を救われた」といっても過言ではない。
当時目を付けられていた私に話しかけることは、並大抵の勇気では出来ないと思う。
ただただ、『ありがとう』の気持ちでいっぱいなのに、どうしても裏切ってしまった『ごめんね』を伝えられないでいる。

今でもKとは一番本音を話せる相手として連絡を取り合っているが、
なんとなく、当時を振り返る会話もないので、(振り返ること自体が歯がゆい気がする。)13年前から『ごめんね』の言葉が止まってしまっている。
そして、この『ごめんね』だけは『ありがとう』に切り替えるべきではない、と思っている自分が今ここにいる。