私の身体にとって、生理はどうでもいいらしい。沈没しそうな船から、まずその荷を捨てるように、ストレスや体重の減少で危機を予見した私の身体は、真っ先に再生産機能を切り離す。

「月経不順」より社会で生き残れるかどうかの方が、私にとって大きい

私は将来不妊になる可能性や、単純にあるべきものがないことへの不安は抱くものの、充実した忙しい日々や野心的な目標達成の障害となる生理は、なければないで有難いと思っていた。キャパシティを考慮せず活動する私に、ついていこうと必死な身体が、自己保存の為に種の保存を諦めることは理にかなっているとさえ考えていた。

友達の感覚も、私と大差ない。これまでに会った日本をはじめとする東アジアの女の子や欧米の友達は、みんな私の月経不順を心配してくれる一方で、月に一度の面倒から解放されている私を羨ましそうに見る。

生理は、私たち女性の前に踏み出そうとする足を引っ張る鉄球。若しくは、自由な行動に制限を課す抑圧的なルール。

生理がない。それは私にとって、束縛から解放されたかのようだった。お医者さんは、「もっとゆっくり生活すれば、自然と身体の機能も戻ってくる」と言う。でも、私にはやりたいことが山ほどある。

ヘトヘトになるまで勉強して、バイトや家事も手を抜かず、K-POPアイドルをお手本にエクササイズしたら、残った時間で友達と学生時代の思い出を作る。今からたくさん勉強して、色んな経験積んでおかないと、社会で生き残れないかもしれない。社会人になったら、自分のやりたいことに集中するなど、できないかもしれない。

それらの不安は、月経不順による不妊症の恐れよりずっと大きくて、現実的に私は感じた。だから留学先の新しい友達の反応は、新鮮だった。

留学先でも月経不順のことを話したが、婦人科への受診を勧められた

彼女たちはイスラームの教えに影響をうけた、中央アジア地域の一国に生まれ育った。かつてソ連に含まれていたその国は、女性も貴重な労働力だった社会主義時代の名残か、国全体で1回の出産につき3年の育児休暇が保障されている。

彼女たちのほとんどが、当然の如く、自分の人生設計に結婚と出産を組み入れていた。念のため付言しておくが、私はここで彼女たちが旧い価値観に囚われているなどと言うつもりはない。

「最悪、生理来たわ」と彼女たちが言うと、私は「まじ?それは最悪。私は3か月ぐらい止まってるわ」と言った。すると、「えー、それ大丈夫?でもいいな、楽じゃん」と言うのだ。日本人とも、中国人とも、ドイツ人、トルコ人とも同じ会話をした。生理の話題は、相手との距離を縮める、世界の女性共通の話題。

同じ返答を期待して、留学先でも私は自分の月経不順を暴露した。すると彼女たちは「え、今、なんて?生理きてないの?」と生存率60%以下の病気を診断された家族を見るような目で、彼女たちは私を見た。そして、その確率が下がる前に、なんとしても医療措置をとらねばと言わんばかりに、婦人科への受診を勧めた。

再生産よりキャリアを優先し、リプロダクション・ヘルスを軽視してた

「いつか来るよ」と楽観的な私とは対照に、この病は時間との勝負だとでも言うように、「駄目だ、すぐ医者に行け」と彼女たちはかぶりを振った。何故こうも違うのだろう。何故彼女たちは、あんなに真剣に、私の月経不順を捉えたのだろう。

予想外の反応の背後にある要因を、ぼんやりと探し求めていたある日、突然一つの解が閃いて、私は薄暗い寂しさに覆われた。あぁ、私はリプロダクション・ヘルスを軽視してきたんだ。

再生産より、キャリア。出産・育児より、“社会活動”。女性特有の能力で、人類史に欠かせないリプロダクションを、蔑ろにしてきたのは、私か、社会か。