中学時代、研修旅行前に体育館に女子だけ残され、旅行中の生理対処方法について女性の先生から話されたとき、わたしは何も思わなかった。まだ何も知らなかったため、これが通常と思い込んでいた。

しかし、歳を重ねるにつれ、この世界はもの凄く理不尽なことばかりであることに気づいた。

「生理の痛み」に耐えられず、自分の弱さを責めたり、倒れたりした

中学3年の夏の終わり、高校入試の模試を受けた。わたしはその日、生理2日目だった。身体も発達途中で生理痛に耐えられるような身体でもないのに、そんな配慮なしに生理痛は弱冠15歳のわたしを襲う。

クーラーのない教室、抉られるような腹痛、次第に口の中に唾液が溜まり、吐き気と妙な寒気で試験どころではない。途中退室してお手洗いに駆け込み、まだ痛みも感情もコントロールできなかったわたしは、理解不能な痛みに泣くことしかできず、模試もまともに受けられない自分の弱さを責めた。

生理にまつわる悪夢のようなエピソードは、数え切れないほどある。ずっと座っていると、33cmのナプキンでも間に合わないほど出血するため、就活の説明会は椅子に経血がつかないかずっと不安だった。新宿駅で貧血で倒れ込んだ時に、声をかけてくれた男性に「生理痛が酷くて」なんて言えずに、「大丈夫です」と言い放つことしかできなかった。

社会人になっても業務中に貧血で、気を失いかけお手洗いでぐったりと倒れた。心配してくれた先輩が上司に話してくれて、後輩がナプキンとフルーツと温かい飲み物を買ってきてくれて、タクシーで家まで送ってくれた。2人とも勿論、女性だ。

なぜ女性だけが「生理」を学び、苦しみに耐えないといけないのか?

歳を重ねるにつれ、この苦しみは女性が抱える普遍的な葛藤であることを知った。逃れられない心身の痛みに、必死に耐えてきた自分をまるごとぎゅっと抱きしめてあげたい。

女性の身体のことだからといい、なぜ女性だけが学び、この苦しみに耐え、ひっそりとしていないといけないのか。わたしの知る限りでは、生理が来る仕組みすら、知らない男性があまりにも多い。というか、禁忌のように捉え、知ろうとしない人が多すぎる。

挙げ句の果てに、「生理中であればセックスしても妊娠しないんでしょ?」なんて言葉を浴びせてくる馬鹿者もいる。無知の知のかけらもなく、もはや言葉を失う。理解しようと寄り添ってくれるだけでいい。それすらできないような、欲望しか頭にない男性が多すぎる。

一番大事なことを教えてくれない、日本の性教育に問題があると、わたしは考える。先生たちはあの日、生理の話をする時に、なぜ女子だけを残したのか。わたしはあれからずっと、生理が来るのは自然現象なのに、あたかも恥ずかしいことかのように刷り込まれてきたため、助けを求めることができなかった。

生理だけでない。日本の性教育は、あまりにもいびつすぎる。わたしは比較的、性に関する話をオープンにしてきたが、なぜか風変わりな人扱いをされる。もっと自由にディスカッションしたいだけなのに。

なんの規制もなく話せる友人は、東京支部と大阪支部それぞれ1人ずつしかいない。性に関する知識を正しく授業で学び、男女で知識差なしに大人になっていたら、もう少し生きやすかったのだろうか。生理痛に苦しんだあの日、わたしは誰かに助けを求められたのだろうか。

生理について誤った解釈や知識不足により、一人で苦しむのはもう嫌だ

生理・妊娠・出産。さらに、仕事。「男女共同参画社会」という言葉を盾に、女性も男性と同じ土俵で、働くことを強いられているような感覚がわたしにはある。

男性も子を産んでくれるならそれでも構わないが、今の科学では出産できるのは女性だけだ。男性も女性も生まれた時から立つステージが異なり、そこに優劣はない。わたしが求めるのは、“平等”でなく“公平”なのだ。これはわがままだろうか?

痛みを理解することはできなくとも、毛布をかけたり、温かい飲み物をそっと用意するくらいはできるのではなかろうか。

誤った解釈や知識不足により、一人で苦しむのはもう嫌だ。偏った性教育による知識差がなくなれば、今よりも相手の気持ちを思いやることができるかもしれない。今この国に足りないのは、そういった“想像力”なのではなかろうか。