何のためにメイクをしているのか、わからない。それなのに、学校や職場でメイクをしていない人を見かけては、心のどこかで常識外れだと見下す。

一体どこから来た常識なのかもわからない、それに対する攻撃的な感情が湧き出して止まらない。

「メイクをしていない奴はありえない」先輩の一言がきっかけだった

歳を重ねるごとに、メイクは私を美しくするどころか汚くしていった。この世からメイクが消えたら、どんなに楽になるだろう。毎朝鏡に映る仄暗い感情をファンデーションで覆い、メイクに寄りかかって社会に繰り出す。

こうなってしまったのはきっと高校の始め。ステージに上がってパフォーマンスをすることが仕事の部活に所属していた。夏の公演で、部活の先輩が言い放った「高校生なのにメイクしてねえ奴ありえないよな」という一言から、私のメイク人生は始まった。部内で発言力を持つその人に舐められたら終わりだと思ったからだ。

当時、私は見事に「ありえない奴」で、メイクは何も分からなかった。とりあえず百均に走り、よく分からないアイシャドウとグロスを買い、顔に塗りたくった。口の赤い二足歩行の何かが鏡に映った。それでも、先輩と同じ土俵に立てた気がして、周囲に対して優越感を覚えた。

メイクに悲観的なのに、メイクをせずに外に出ることはずっと怖い

大学に進学してできた気の合う人たちは、軒並みノーメイク登校だった。みんな尊敬するところがある人たちだった。一緒にいることで学びも多かった。それでもなんとなく、彼女たちのことを下に見ていた。

ある日、寝坊やら体調不良やらが重なり、メイクをせずに登校する羽目になった。最悪すぎて、休み時間コンビニで化粧品を買って急いで塗りたくった。教室に戻ると、「毎日メイクをしてえらいね!」と褒められた。今まで当たり前だったメイクへの「えらい」の一言にとてつもない違和感を覚えた。

そういえば、もうあの威圧的な先輩はいない。舐められないようにメイクする理由はないのだ。友人の一言が、何のためにメイクをしているのかについて考えるきっかけとなった。ただ眉毛が伸びて、目の上にキラキラはまるで目やに。リップは唇の大きさを強調してしまうし、ノーズシャドウで鼻は小さくならない。

笑ってしまうほどメイクに悲観的なのに、メイクをせずに外に出ることはずっと怖い。この感情は、私が高校の先輩に認められたかった気持ちを引きずり、その意味が広がって、「人に認められるにはメイクをしなければならない」と勘違いを起こすようになっていたからだとその時気づいた。

目の前にいる友人は化粧をしなくても同じ場所にいてくれる。メイクが対人関係のドレスコードではなくなったとき、肩の荷が降りすぎて思わず泣いてしまったのは内緒だ。

新しい服と同じ色の「アイライナー」を引いたら、違う自分が見えた

それから少しして、「メイクが楽しい」と言っている子の話を聞いた。メイクをすると強くなれるそうだ。その感覚はなんとなく分かるが、私の消極的な方向性との違いは一目瞭然だった。「好きな色をつけている日はテンションが上がる」そんなことを言っていた。

当時、定期券圏内のサブカルタウンに入り浸るうちにファッションに関心が出てきていた私は、買った服と同じ色の真っ青のアイライナーを思い切って買った。帰ってすぐに塗った。ダメならすぐに捨てようとしていた。

少なくとも私という人間のパーツにない青の輝きは、顔面をいつも通りかそれ以上に醜くした。鏡を割ってしまいたくなるメイクの後のいつもの衝動に駆られながら、少しだけ心が跳ね上がったのを感じた。これ以降、メイクが少しずつ怖くなくなった。

メイクとの付き合い方は依然として不器用なままでも、なんとか生きている。なんとか、生きていく。