化粧が呼吸だった時代がある。今では眉毛も描かず出勤する私も、以前は化粧が生きていく術だった。

新人研修の講師を務めるおじさんが、「化粧は女性のマナーです」と説くので思い出してしまった。夜明け前に始めた化粧が昼まで続き、また夜が来ようとしても止められなかった毎日のこと。泣いても泣いても、外の社会で何ともない振りをするのに化粧が必要だったときのこと。おじさんの生やしっぱなしの眉毛を見て、また当たり前にある格差を感じながら、思い出してしまった。

12歳の私は「アイプチ」をしただけで、お姫様になれた気がした

当時12歳だった。母が何の気無しに買ってきたアイプチにどハマりした。休日だけという約束は簡単に破り、こっそり学校へもしていった。阿呆なので、瞼がくっついただけでディズニープリンセスになれた気がしたし、明るい毎日への予感がした。よくあることだと思う。

でも明るい毎日どころか、私のストーリーはどんどん雲行きが怪しくなる。化粧にちょっとした義務感が生まれたのだ。日が経つにつれて、「したい」から「しなくちゃ」に変わった。これもよくある話だと思う。よくある話だけれど、しんどかった。

皆が誰かの噂話で先生に注意されるころ、私は自分の瞼ばかり見ていた。毎日力ずくで化粧をするから瞼が腫れ、血が滲んだ。アイプチを忘れたときは、授業を抜け出して美術室まで走り、木工用ボンドで瞼をくっつける始末だった。一緒にサボった友達が、ボンドで白く固まった私の瞼に爆笑して、私も爆笑した。面白いから涙が出るのか、痛いから涙が出るのかよく分からなかった。

私の化粧癖はエスカレートし、化粧しては落とし、またし直していた

つけまつ毛もマスカラも色付きリップクリームも、誰かにモテたかったからじゃない。「女として」こうあるべきだみたいな、「責任を果たす」みたいな気持ちだった。

テレビでもネットでも、「化粧もせず、女を捨ててる」とか「すっぴんの彼女にドン引き」とかゴロゴロ言葉が並ぶ。ゴロゴロ並んだ言葉がそのままストンと心に落ちるように、納得してしまった。確かに、見せられたもんじゃないな私の顔。

最終的に私の化粧癖は「強迫行為(神経症症状の一種で、異常だと自覚しながら止められない行動)」と医師に言われるまでに発展する。自己認知の歪みから醜形恐怖症になり、化粧をしては落とし、また化粧し直していたら時計が一周した。ポップにいえば、化粧とニコイチだった。

化粧以外のことは考えられず、逆に化粧をしている間は何とか生きていられた。ただそれは自分の身を削って食べるように消耗を感じさせたし、いつ解かれるか分からない足枷をつけられたような地獄だった。

顔のパーツ配置や大小をそのまま見せることが、失礼に当たるわけない

さて、克服した今、化粧が嫌いになったわけではない。変わらず化粧は鎧であり、梯子であり、扉である。ただ昔と一点違うのは、「見せられたもんじゃないな私の顔なわけない」と分かることだ。

人の顔のパーツ配置や大小をそのまま見せることが、失礼に当たるわけがないと分かる。そして、女性にだけ課せられる化粧という“マナー”に違和感を覚える。化粧がマナーであるなら、素顔は恥ずべき・隠すべきものであると受け取れるけれど、私はおじさんのスッピンを見ても恥ずかしいものだなあなんて全く思わない。恥ずかしいスッピンなんてないよね?

また、ここで一つ難癖をつけたい。「あなたはそのままで美しい」みたいな言葉も少し疲れてしまう。私たちは“美しく”なくちゃいけないんだっけ。醜かったらいけないんだっけ。美しさだけが私たちの価値でないなら、“美しさ”を常に軸に置いておきたいわけではない。

美しさと離れたりくっついたりするためのツールとして、化粧には、もっとラフであって欲しい。たまに映画を観て現実逃避するみたいな、お菓子を食べてご機嫌になるみたいな、私の気分本位なものであって欲しい。そんなことを、「おじさん、眉毛お揃いだね」なんて思いながら考えていた。