私の故郷は、海亀の産卵地として、毎年何頭かが浜辺にあがってくる。
そのすぐそばに、海亀の博物館がある。私は、ここを地元なのにも関わらず、先週初めて訪れた。そこで、この浜辺は命の交差する浜辺なのだと初めて知った。

消える命と生きる命の重さは同じで、どちらも大切な命

博物館には、色々な体験スペースや亀たちがいた。亀の甲羅背負い体験。亀の進化の展示。一括りに「海亀」といっても、その種類は様々な亀たちの飼育プール。どれも、分かりやすく展示されており、亀たちのことが少し身近に感じられた。
その中でも、目を引いたのは未熟なまま産まれてきた卵だった。話を聞くと亀は、一度に、亀はいくつかの卵を産むが、その中でも、たまに卵の中で成長しきれなかった者もいるらしい。
その、1つ前の展示に、お母さん亀が一度に産む出産の卵の重さの展示があった。重かった。妊娠中は、この重さを背負って浜辺まで行くのかと思うと、お母さん亀も赤ちゃん亀も命懸けで大浜海岸に来るのだと実感した。
だからか、産まれてこられない赤ちゃん亀と産まれてこられる赤ちゃん亀。その重さはどちらも同じ重さだと私は感じた。
そう思うとふと、山上憶良という人の歌を思いだした。

銀も金も玉も
何せむに優れる宝
子にしかめやも

消える命と生きる命が絶えず交差するこの浜辺。どちらも銀も金も玉もなににも変えられない。大切な命を生みだしている。

全てが無事に生まれてくることはないということは、命の摂理のひとつ

これは、人間にもいえるのではないか。人間にも、産まれてこられなかった赤ちゃんたちが、産まれてくることのできた赤ちゃんと同じぐらい、いるだろう。でも、その赤ちゃんたちの命はどちらも平等である。そして、産む時は、母親も赤ちゃんも必死に生きるために、産まれてくる。

いや、自然界全体にいえることだろう。その種族によって、出産方法は違う。ただし、その全てにいえることは、すべての子どもたちが無事に産まれてくることはないということ。それが、命の摂理のひとつであること。
鳥も。虫も。猫も。植物たちも。私たちも。その摂理によって生きている。消えた命の数だけ、生きた命がある。生きた命の数だけ、消えた命がある。そのどちらも交差し続けている。どちらも同じ重さ、同じ尊さをもって、生きている。

生きながらえている、私たちはどう生きれば良いのだろう

生きながらえている、私たちはどう生きれば良いのだろう。生きることには、常に苦しみがつきまとう。それでも、耐えろというのは酷ではないか。
一体どうすれば良いのか。私にも、分からない。これは、読者の皆様が考えていってもらいたい。丸投げしていると言われようが分からないものは、分からないのだ。
ただ、私があの博物館で学んだことは、命の交差が絶えず行われている。ただそれだけの事だ。

私は今、18歳の小娘で全くの世間知らずで、命のことなど語れるほど長く生きてはいないし、多く経験を積んではいない。
けれども、誕生日で毎年言われている「生まれてきてくれてありがとう」には、こんな深い意味があることを知っておいて欲しい。それが18歳の世間知らずの小娘の願いだ。