社会人2年目、休日の前夜にわたしは泣きながら仕事に関する勉強をしていた。
2年目になると1年目より先輩たちの態度が明らかに厳しくなるし、苦手なことからますます逃げられなくなる。

出来の悪さや、些細な不満、山盛りのダメ出し。
全部に向き合わなければならない。辛すぎる。
明日は休みだ。でも明後日は仕事だ。

あの頃に戻りたい。わたしを溺愛してくれた祖父母とのモーニング

ぽろぽろと涙を流しながら天井を眺めた。現実から逃れられる非日常を求めていた。すべてを忘れられる状況を渇望していた。もう何もしたくない考えたくない。

涙を流しながら、天真爛漫、親戚一同の愛を一身に受けていた幼少期を思い出していた。
わたしは長女で初孫だったために両親と祖父母の愛を浴びるように与えられて過ごしていた。あの頃に戻りたい。齢三歳、わたしの人生の絶頂だった。

涙で霞むまぶたの裏側、祖父母に手を引かれて行った喫茶店のトーストとゆで卵がゆらゆらと現れた。
耳元で天使がささやいていた。
「モーニングを食べに行きなさい。」

モーニング、ご存じでない方もいるかもしれない。
喫茶店が朝行なっているサービスの一環で、コーヒー1杯の値段でトーストやサラダ、茹で卵が付いてくるお得なサービスである。

わたしを溺愛してくれた祖父母はモーニングサービス発祥の地に暮らし、毎朝コーヒーチケット(コーヒーの前売り回数券、お得)片手にモーニングを嗜むヘビーモーニンガーであった。

わたしは祖父母の家に遊びに行くと2人に連れられてよく喫茶店に行っていた。喫茶店の店員さんは必ずわたしに小さいピルクルをくれた。

わたしは虚な目をして布団に潜り込んだ。目覚ましを朝7時にセットした。モーニングを食べに行く時は早起きをしなければならない。
スンスンと鼻をすすりながら子供のように眠りに落ちた。

翌朝、腫れぼったい目にアイシャドウを乗せてわたしは家を出た。

タバコとコーヒーの混ざり合った匂い。そこは慣れ親しんだ空間だった

向かう先は上野。上野には祖父母によく連れて行ってもらった喫茶店に似た純喫茶がたくさんある。
一つの喫茶店に目星をつけて、山手線上野駅で降りた。

東京の街の中で上野が1番好きだ。美術館も博物館も、動物園もあるから。大好きなお酒が飲める大衆居酒屋だってたくさんある。闇市の名残だって魅力的だ。未だ大人になりきれない中途半端なわたしはこの街が大好きだ。

まだお店がほとんど開いていない、朝の上野は静かなのになぜか活気に満ちていた。
アメ横と美術館から目を逸らし、喫茶店に向かった。歩むたびにお気に入りのワンピースに潜り込む隙間風が冷たかった。

駅から歩いて10分、光っていないネオンの看板と「モーニング」と書かれた看板が目の前に現れた。地下に続く階段、ステンドグラスにおののきながら降りてみればそこは慣れ親しんだ空間だった。

はじめにタバコとコーヒーの混ざり合った匂いがした。
次に入口に置かれたオルゴール付きの置き時計が懐かしかった。

好きな席にどうぞと通された。店員の女性はもちろん私服だ。コーヒーにトーストとサラダ、茹で卵のついた1番オーソドックスなものを頼んだ。

椅子はふかふかだった。漫画は3年前のジャンプが置いてある。灰皿が置かれた茶色い机には砂糖とミルク、コーヒー豆が一つ入った塩が置かれている。

満ち足りた幸せが全身に広がっていった。生きたいと思った

頼んだものは5分ほどで来た。

ブラックコーヒーはもう飲める、苦さだって美味しく愛せる。トーストをかじるとバターがじゅわっと溢れた。サラダはキャベツとレタス、トマトが入っていた。ドレッシングがちょっとだけ酸っぱかった。

朝起きてからまだ何も食べていない。夢中になって食べた。

茹で卵は殻付きで、殻を割って塩を振った。固茹での黄身に塩気の効いたその味は、昔食べたものと同じ。

人に作ってもらった朝ごはんはこの世で1番美味しかった。コーヒーとタバコの匂いはあまりに懐かしかった。ゆったり流れる高めの温度はすべてを受け入れるように骨身に染みた。

満ち足りた幸せが全身にぬるま湯くらいの温度で広がっていった。
生きたいと思った。あと、愛されてきた生涯を思った。人間にはモーニングが必要であった。

会計を済ませて外に出ると、高く昇った日の光があまりに眩しかった。

おじいちゃんとおばあちゃん、モーニング毎日食べてたの本当にうらやましいな。
わたし今日はじめてモーニング1人で食べに行ったよ。