古文を休み時間に読む女子高生なんて、彼女らにとっては未知の存在だ

「高林さんって取っ付き難いよね~」
「わかる~『私はあんた達とは、違う』って感じするよね~」
「いつも、古文読んでてさ、平安貴族かよ」
「それな~。なんかいい子ぶってるよね」
これが、昨日の昼休み。クラスメイトから言われた悪口だ。
怒ってないといえば、嘘になる。でも、それ以上に「やっぱりな」という気持ちの方が勝っていたのだ。

古文を休み時間に読む女子高生なんて、いないのかもしれない。『未知』とは、時に人に不快感を与えるものなのだ。私は、彼女らにとって『未知』であり、不快感を与えるもの存在なのだ。

でも、私を変える必要は、無い。私は、どうやったって私にしかなれなかったから。きっと、骨の髄まで私という成分を含んだ体だから。

私の家庭は、男尊女卑の家庭だ。常に二つ上の兄が優遇され、女の私は家事、姪たちの世話(私には姉もいる)、学業と、全てこなすように言われた。一方兄は、学業のみ専念すればよく、非常に暮らしやすいだろう。

そんなとき、日本文学に出会って読んでいると、「女のくせに」と兄に言われた。この人にとっても、女で日本文学を読むのは『未知』の存在だった。だから、もう慣れている。

紫式部日記を読んで思う。彼女もきっと「未知」だったんだろう

古文の世界は、そんな私にぴったりな世界だった。

「それを、『男だに、才がりぬる人は、いかにぞや、はなやかならずのみ侍るめるよ』と、やうやう人の言ふも聞きとめて後、一といふ文字をだに書きわたし侍らず、いとてづつに、あさましく侍り」

(男でさえ、『漢学の知識を広める人はどうなのでしょう』と人の言うのも聞きとめたあと、一という字も知らないような態度を取り続けた。我ながら呆れることだ)

これは、『紫式部日記』の一節だが、紫式部にもこのような悩みがあったとすれば、近親感が湧く。

私も、人と会話する時は、古文のことを言わないようにしているが、やっぱりそうしているのは、履きなれない靴を履いているようですっきりしない。思わず、「あるある」と言いたくなるような一節だ。
彼女もきっと、当時からすれば『未知』だったのだろう。それゆえ、人に不快感を与えてしまうことがあったのだろう。

不快感は勝手に相手が作り出すもの。人と違うことの何が悪い?

でも、考えてみて欲しい。その不快感は、勝手に相手が作り出したもので、私には関係のないことだということを。人と少し違うだけなのに、勝手に不快感を持たれるこっちの身にもなって欲しい。

私たちは、自由に生きていい。相手に不快感を持たれようが関係ない。それで、攻撃的な言動をされたとしたら、それは理不尽だと怒っていいはずだ。泣き寝入りなんて許されないはずだ。
それなのに、どうしてこの国は、『未知』と不快感が密接な関係を築いているのだろう。

だから、私はこの文を書いた。あの人たちに読まれないとしても書くことにした。
言われた時は、何も出来なかったけれど、あの時言い返せなかった分ここで言ってやる。それが、私の復讐だ。
初めに、「やっぱりな」という気持ちが怒りを通り越したと言っていたが、私はかなり怒っているのかもしれない。