私の人生のそばには、いつも本があった。人生は日常の集積であると思うから、私の日常には、いつも本があったと言っていいだろう。私は、今年26歳になる。自分で本を読んだ記憶のある年齢から考えると、20年ほどの愛がある。それを、このエッセイで振り返りたい。
毎月、父が買ってきてくれる本を楽しみにわくわくしていた
記憶のある、と書いたが、両親の話によれば、赤ちゃんのころから読み聞かせをしていたそうで、幼稚園に入るくらいから、父に「この本読んで」といつもせがんでいたそうだ。そして、これは記憶にもあるのだが、父が私と兄にそれぞれ2冊ずつ、毎月はじめに本をプレゼントしてくれた。父が選ぶ本はどれも本当に面白くて、毎月、「今月おとうさんはどんな本を買ってきてくれるんだろう?」と楽しみにわくわくしていたのを覚えている。小さな頃は絵本が多かった印象だが、ときどき兄にプレゼントされた本と交換して読ませてもらったりしていた。
自分で本を選んで読んだ記憶で印象に残っているのは、小学生のころに読んだ竹下文子さんの『黒ねこサンゴロウ』シリーズだ。サンゴロウがいろいろな冒険をする様子をいつも羨ましいと思いながら、いつか自分も広い世界を見てみたいと思ったものだ。小学校の図書館は、最上階の4階にあり、日当たりもよく、授業の読書の時間で訪れる以外にも、休み時間に行ってはたくさんの本を借りていた。そのころから、図書館の静かで落ち着いた雰囲気が好きだったのだろうと思う。
中学生のころは、禁断の恋を描いた小説を読んでいて苦い思い出も
中学生になると、毎日、朝の10分間読書という時間があった。クラスメートのほとんどは静かに本を読まなくてはいけない時間、強制的に読まされる時間、とあまり好きではない様子で、飽きてしまう人が多かったが、私は毎日学校でも本を読める時間をもらえたことが嬉しかった。小学生の時までにすでにたくさん本を読んだこともあり、中学生の頃は芥川賞や直木賞受賞作品などを読んでいた。私は偉そうにしていたり、見せつけたりしていたわけではなかったが、あるとき、クラスメートの一人に読んでいた本をからかわれたこともあった。それは、禁断の恋を描いた小説で、表紙にも抽象的でありながらややセクシーで耽美的な絵が描かれていたことで、勝手に変な内容だと想像されてしまったのだ。幸い、いじめなどには発展しなかったが、それ以降、本にはブックカバーをかけて読むようになった。大好きな本に関する、苦い思い出のひとつである。
高校生のころは、勉強に部活、行事とめまぐるしく日々が過ぎていき、本をじっくり読む時間は取れなかった。高校には素晴らしい雰囲気を持つ図書館があり、蔵書数も県内でも多いほうだったため、少しの後悔が残っている。きっと高校生という多感な時期だからこそ本を読んで感じられる気持ちがあっただろう。
大学生になってからは、海外文学や洋書の魅力にも気付いて
大学生になり、高校生のころと比べて自由な時間が増えたこともあり、私の読書にも変化が訪れた。それまでは主に日本人作家の作品を読んできたのだが、海外文学(翻訳版)の面白さに気づいたのだ。たまたま大学の図書館に、OGが寄贈したアガサクリスティーの文庫作品がずらりと並んでおり、名前だけ聞いたことのあったアガサクリスティーを読んでみようと思ったことがきっかけだった。ページをめくってみると、最初から最後まで面白く、事件のプロットや読者をワクワクさせるような魅力的な登場人物たちなど、すべてに惹きつけられた。それから、海外ミステリーや、海外文学を読み漁った。
また、大学1年次に海外留学したことで英語の勉強に対するモチベーションが上がり、学習の一環として英語圏の子ども向けの簡単な洋書も読み始めた。少しずつではあったが、洋書を読むことにも慣れてきて、日本語訳されていない作品も読める喜びを知った。
洋書を読むことは、イギリスに移住した現在でも変わらない。コロナ禍で家にいる時間が増えたこともあり、読書を楽しんでいる。また、青空文庫というウェブサイトを利用し、パブリックドメインの日本の古典作品を読むこともある。また、友人の話によれば、現在ではオーディオブックになっている作品も多いそうで、こちらも挑戦してみたいと思っている。これからの人生も、何が起きるか分からないが、私のそばに本があることは、きっと変わらないだろう。