「ねえ、共学になるんだって」
中学、高校、と過ごしてきた女子だけの学び舎が、共学化する知らせを聞いた際、私の鼻孔には懐かしいチョコレートの香りが蘇ってきた。
毎年無礼講となる2月14日。教室は甘い香りに包まれる
私は中学、高校、大学と10年間女子校で過ごした。
そう告げると誰もが「お嬢様なんだねえ」「ごきげんよう、とかいうの?」と問いかけてくる。だが私を育んだ女子校は偏差値は高くはなく、周りを畑と無人野菜販売所に囲まれた片田舎にあり、世間一般の女子校の清らかな聖なるイメージと異なっていた。
思春期といえど男子の目が無いのでスカート捲りが横行し、暑い日にはスカートの中に扇風機を入れて涼み、大きな胸の女の子の胸を女の子が「おっはよー」と挨拶代わりにソフトタッチするような環境であった。
そんな私が女子校の思い出と言われて思いつくのは、乙女の皮を脱ぎ捨て野獣と化した体育祭や、口いっぱいに模擬店のワッフルと生クリームを頬張った文化祭ではなく、ある如月の一日である。
女子校のバレンタインはチョコレート交換会だ。
それぞれ持ち寄った手作りのチョコレートやお徳用のチョコレートを、クラスメイト全員に配りまわる。手作りのチョコレートは可愛らしく赤やピンクの包装紙でラッピングされているものもあれば、「ひとりひとつだよ」と回されるタッパーもある。
本来は学業に関係のないものは学校に持ってきてはいけない。
お菓子など言語道断であり、飴玉を持ってきただけで生徒指導室送りになった子もいる。けれども2月14日だけは無礼講。
教室中で手渡される小さな包みにも、甘い香りにも、言及するような野暮なことはしない。それどころか「先生、ハッピーバレンタイン」と手渡される包みに顔をほころばせている。
卒業間近のバレンタインの日、教室を開けるとそこには…
そんな中で私のクラス……お祭りごとが大好きで学校行事が大好きなE組は普通のバレンタインではつまらない、トリュフでも、ブラウニーでもダメ。
他の学年やクラスと同じでは落ち着かないと、学級委員たちがある特別なチョコレートを用意していた。
朝、袋いっぱいの友チョコを片手に寒気で冷えた教室の扉のノブを捻ると、教室の空気が茶色に染まってしまったんではないかと目と耳を疑うような甘い香りが立ち込めていた。
「えっ、なに?」
その香りは教壇の上から発せられていた。そこには小さな噴水を思わす機械があり、絶えずとろけたチョコレートをふわふわと天井目掛けて浮いては落ちていくのを繰り返していた。
チョコレートファウンテン、スイーツバイキングで見かけるような代物が、角刈りで「気合いだ」が口癖の担任教師の定位置である教壇に鎮座していた。
「おはよう、みかん!マシュマロにする?クッキーにする?クラッカーもあるよ」
色白で美しい学級委員長は、宿題のノートを集めるような当然な語り口でタッパーに綺麗に並べられた果物やお菓子を差し出してきた。
「これってなに?どうしたの?うちのクラスってお菓子屋さんだったっけ」
「これ私からのバレンタイン。卒業近いし面白いことしたいでしょ」
見渡すと27名のクラスメイト全員が、チョコレートを纏うことによってドレスアップした果物やマシュマロやクラッカーを片手にもぐもぐと口を動かしていた。
「だからチョコレートファウンテン?」
「そう、これなら忘れないでしょ」
「忘れないよ、こんな甘い香り、忘れられない」
「ならしてやったり。これなら卒業しても、大学生になっても、おばさんになっても、なんならおばあちゃんになっても……絶対この教室でのバレンタインを忘れないでしょ」
そう手渡されたマシュマロに楊枝をつけて、波打つチョコレートの滝の中へそっと入れる。真っ白い無垢なチョコレートは一瞬のうちに茶色に染まった。
それを口に運んでみると、ぬるりとした生温かなチョコレートの触感と甘さが広がり、追ってくるようにマシュマロの弾力。
すると先生が入ってきて、「なんだこりゃ」と目を丸くするが、すかさず学級委員長が「先生も共犯です、はいどーぞ」と私にしたのと同じようにタッパーからマシュマロをひとつだして、差し出した。
私の舌は今でもあのマシュマロの触感を覚えている
ーーこれなら卒業しても、大学生になっても、おばさんになっても、なんならおばあちゃんになっても……絶対この教室でのバレンタインを忘れないでしょ。
学級委員長の言葉は合っていて、私の舌は今でもあのマシュマロの触感を覚えている。そして共学化の一報を受けた際に真っ先に蘇ってきたのはそれだった。
共学になれば、きっとバレンタインでクラス全体を巻き込んだチョコレート交換会なんてしないだろう。好きな男の子にチョコレートを渡し、きっと同じグループの仲のいい女の子だけに友チョコを渡す日になるんだろう。あのチョコレートの香り立ち込める教室さえも。
そう思うととても悲しかった。
私の思い出にヒビが入った音が確かに聞こえた。
「ごきげんよう」なんて言わなければ、スカート捲りで盛り上がり男子も驚くエロ本が回し読みされる女子高生だった。
けれど私、確かにあの瞬間とても聖なる存在だった。二度と戻れないきらめきがあった。