2020年12月半ば。私の東京生活シーズン1は約8年間で打ち切りとなった。シーズン2はまだ未定、企画段階だ。

高校卒業後、東京に行きたくて「東京の」看護学校に入学した

高校卒業後、東京都内の看護学校に入学した。看護師になりたかったわけではなく、東京に出たかったから。そして、クラスの約半分が看護師を目指すクラスに私は属していたから、東京の看護学校に進学することを決めた。

小さい頃からテレビの向こう側、スクリーンの向こう側の世界に憧れを持っており、本当は高校も東京の高校に行きたかった私は、とにかく東京に行ける理由を探していた。

東京にはたくさんの映画館がある。上京してからは、地元の秋田では観ることのできないたくさんの映画をとにかく観た。そこで、映画を自主で制作しているチームに出会い、そのチームの映画を観た後、飲み会に参加させてもらった。

たくさんのお話を聞き、たった数時間で感化されてしまった私は、看護学校を辞めることに決めた。決心がついたのはこの時だったが、入学した日からずっと、辞めるきっかけを探していたような気がする。母にはA4サイズよりは大きいサイズの紙3枚に看護学校を辞めたい理由を書いた手紙を送り、その時に私が目指したいものを初めて母に打ち明けた。

実家に帰った時、「本当に辞めるの?」「うん」。たった1往復で退学届にサインをしてもらった。あのまま話していたら、母は泣いていたと思う。すでに言葉尻が小さかった。「このまま看護師になるもんだと思ってたよな」と、少しだけ申し訳ない気持ちになったことを覚えている。

看護学校を辞め、20歳になる年に本格的に「東京生活」を始めた

たった3ヶ月半の看護学校生活が終わった私は、東京に出るための資金作りのために仕事を探した。実家に居づらかったかった私は、秋田以外で働ける場所を探し、たまたま見つけた栃木の旅館で5ヶ月程働き、20歳になる年に本格的に東京生活を始めた。これが私の東京生活シーズン1の始まりだ。

演技のレッスンやワークショップに通ったり、舞台に出たり、撮影に参加したり、充実した日々を送っていた。たくさんの映画を観たし、小劇場にも足を運んだ。たくさんの仲間に出会ったし、人並み以下程度に誰かを好きになったりもした。

もう映画すら観たくないと落ち込んでしまった時期もあったが、東京でお世話になった人の死を経験してから、自分でも不思議に感じるが、オーディションに受かったり、声がかかるようになったりした。

そして、今年も頑張るぞという時に、新型コロナウイルスが世に出回ってしまった。考える時間がいつにも増してでき、余計なことまで考えてしまう日々だった。

その時に、今自分が東京にいる意味はあるのだろうか? 東京にいなくても自分のやりたいことができるんじゃないか? などと考えていたら、連日ものすごく寝つきが悪くなってしまい、少しだけ元気がなくなってしまった。

「東京」という恋人に執着してしまって、自分が疲れてしまっていた

そして、当時住んでいた部屋の契約更新をどうするか決めないといけない日まで残り1ヶ月という時に、東京での生活を一旦やめようと決意した。たくさんの前向きな理由があるが、1番の決め手は「東京」という恋人に執着してしまって、自分が疲れてしまっているということに気付いてしまったからだ。

決めてからは早かった。すぐに契約を更新しない旨を不動産会社に伝え、派遣会社に登録をし、仕事を探し、家具をジモティーで売り、売れなかった家具を捨て、部屋の掃除をしていたら約1週間が経ち、東京とお別れをする日が来た。あんなに憧れていた東京を離れてしまう悔しさはあったが、約5年後までの青写真を描き、未来の自分のために今頑張れている。

少し東京に疲れてしまったから離れたのに、いざ地方に来てみると「そういえば、こういうところに疑問を感じて秋田を離れたいと思っていたんだよな」と思い出すこともあり、ないものねだりでなんだか変だなと思いながらも、忘れていたことを思い出しながら生きている。

今のところ、約3ヶ月ごとに派遣先を変えていて、タナダユキさんが監督された、映画「百万円と苦虫女」の主人公・鈴子のような生活をしている。それの100万円が貯まっていないのに住む場所を変えているバージョンが私だ。

長いといえば長い8年間だったし、短いといえば短い、初めての東京生活だった。これからも表現の世界にい続けたいと思っている。ただ、中途半端な気持ちでこの世界にいてはいけないことも分かっている。

5年先まで描いた青写真通りに自分の人生が進むよう、また、東京生活シーズン2のために、これからまた新しい派遣先に向かう。