私が、私自身が元気でいるためにしていることは、「未来」をつくることだ。
私にとっての「未来」とは、将来の夢のような何年先のものではない。
もちろん、この先の将来の夢のような目標を立てていきたいとは考えている。だが、そうではない。今は、「私の未来」とは何のことなのかを知っていただきたいと思っている。
予定がはっきりしていると、安心して過ごせる
私にとっての「未来」とは、日常のありふれたものである。
今日の夕食は、暑くて食欲がでないから、疲労回復の効果もある豚バラ肉を使って、冷しゃぶサラダを作る。
昨日の夜、好きな漫画の画集が発売予定だとtwitterで予告されたので、明日の朝一に本屋さんで予約をする。
1週間後、仕事を頑張ったご褒美に映画を見に行く。サンダルが古くなったから、来月、ショッピングモールに買いにいく。そのために、流行りのものを、暇なときにみておこう。
昔、集めたお気に入りのレシピだけをコピーしてつづったファイルを、明日、整理しよう。
今日の午後、明日、数週間後、数か月後、身近に感じられる予定こそが、具体的で分かりやすくはっきりしているから、安心して過ごせるのである。
たとえばの話だが、あなたの知り合いが話題作の最新映画をみてきたとする。それに対して、あなたはどうする?
当然、ネタバレになるから話を聞きたくないという人もいれば、大まかでいいから話を聞きたいという人もいるだろう。
私は後者の方である。周りからは良くびっくりされるのだが、一つ呼吸を入れて振り返ってほしいことがある。一度見た映画をもう一度みるときのことをだ。なぜ、一度みたのにもう一度その映画をみるのかということだ。
屁理屈?に聞こえるかもしれない……。でも、ここでは、理屈という言葉を使わせてもらいたい。ネタバレになっているのに、なぜもう一度同じ作品をみるのかだ。
批判をしているわけではない。ただ一緒に、今、このお話を聞いてくれている人と話をしたいと思っている。
話を戻すが、私が思うに、一種の感動をもう一度体験したいと感じているからだと思う。分かっているからこそ、その作品を見ながら、自分がグッとくるポイントを今か今かと待ち望みながら楽しむことができる。
「わかっているからこそ」、それは安心感とも言えるのではないだろうか。すべてが分かっているから安心して結末を見ることができるのではないだろうか。
この森には危険な崖がいくつもあるという警告の看板同様、知らない道を進むときに危険があるかもしれないということが分かっているのと、いないのとでは心構えが違うのと似ているようには思えないだろうか。
そういった安心感を得てから、物語を知っていくことが私には丁度いいのだ。
幼いころ、自分を偽り、自分で自分の可能性をあきらめてきた
自分が予測できる安心感が傍にあるだけで、今何をしなければならないのか、間近にあるご褒美のためにつらい出来事を乗り越えようと思えるからこそ、私は元気になれる。
幼いころの私は、いつも自信がなくて、やりたいことがあっても親から否定されれば自分を偽り、自分で自分の可能性をあきらめるしかなかった。
どんなに自分がやりたいことだとしても自信がないから、一歩を踏み出すこともできない、壁に立ち向かうために乗り越えるための努力もしないでいた。普通たいていの親とはそういうものかもしれないが、私にはそれが絶対に超えてはいけないようなストッパーに感じていた。
そんなことばかり考えていたせいか、いざ大人になってみると、自分がやりたいことは何なのかも分からなくなっていた。
けれど、月日がたち、時間が進むにつれて、周りを見るようになり、人知れず何かしらに興味を持つよう努力するようになった。今まで、周りに知ってもらってから取り組むようにしていたが、そうではなく、自分自身のことを把握してから何にでも取り組むことが大切なのだと思うようになった。
ネタバレのお話と同様で、自分自身がまず「知ること」、「把握すること」が大切なのだと思った。
未来を描くことを毎日、365日続けていきたい
時間とは不思議なもので、たった1秒、1分、1時間……、普通に呼吸をしているだけなのに、全身で感じたものに心を動かされることがある。私も、その一人だ。
自分が思い描いた道をアクシデントにより、妨害されることは何度だって起こりえる。それを気にしていては何もできないし、何も得ることはできない。私は、最近になってそう感じるようになった。
だから、少しずつ前を見るために、何気ない日常に楽しみ・喜びを持つために、私は、未来を描くことを毎日、365日続けていきたい
それが、私が元気に過ごせる唯一の方法だと思うからだ。未来を積み重ねることによって、明るい将来をつかめるように頑張ろうと思っている。