エリート一家の長男である父と、帰国子女でエスカレーターの女子校育ちの母の間に生まれた。どちらの祖父母にとっても初孫だった私は、親族から大きな愛情と期待を向けられて育ってきた。
小学校の時には難関大学入学を見据えた中学受験の勉強に励んでいたし、卒業アルバムには「東京大学文科一類に進学して弁護士になります」と書いていた。
中学受験を経て第二志望として入学した中高一貫校では、自分と同じように「学歴」と「プライド」に縛られた200人の同級生が、青春からはかけ離れた大学受験までのカウントダウンの日々を過ごしていた。
私は自信過剰で目立ちたがり屋のわりに、地道な努力や反復練習が苦手だった。好奇心旺盛でやりたいと思ったことにはすぐに挑戦する行動力があるのに、苦手ことからは逃げてしまいがち。
中学に入ってしばらくたち、英語への苦手意識を持ち始めた。受験に英語は必須。やればできるようになるとずっとわかっていたのに。私は「もう間に合わない」ラインの直前まで、英語から逃げてしまった。
365日、必死で勉強して迎えた大学受験。私の手元に届いたのは
高校三年生を目前にして、幼いころからまるで刷り込みのように話を聞かされ憧れを抱いていた父の母校に通いたいという執念がようやく私を動かした。受験までの365日、本当に朝から晩まで塾にこもり勉強をした。
それでも数字は残酷で、積もり積もった周りとの差はなかなか埋まらなかった。
正直、第一志望への合格はもはや賭けだった。普段はあまり信じない神にさえ、毎晩祈るくらいに。
そして迎えた大学受験。幼いころから意識していた私の人生の大舞台。自分の一生のステータスと、将来が確定する日。
私の手元に届いたのは、第一志望から併願校まで、計14校からの不合格通知。
合格をもらえたのは、受験当日に初めて校舎を訪れた学校だった。
終わった、と思った。親族にも、友人にも、合わせる顔がない。
いち早く電話を鳴らしてきた父方の祖母に進学先を伝えると、「あなたは好きなことをして、自由に生きなさい」といわれた。
卒業式で明るい表情をした友人たちから進学先を聞かれる前に死んでしまった方がマシだと思った。「高学歴」を自分が手にして生きていけると信じて疑わず、学歴のない人生を誰よりも偏見の目で見てきたのだ。学歴を持たない生き方というものを、私は本当に知らなかった。
どう生きていけばいいのか、道を見失った私に母が問いかけた言葉
そんな私を見て、ある日母があることを問いかけた。
「あなたが本当にやりたいことって何なのかな。」
私が描いていた未来は、「いい大学へ進学」して、「お金の稼げる立派な職業」について、「裕福な暮らし」を送る未来。でも、そうではなくて「私のやりたいこと」は何なのか。
「大学では、あなたがやりたいことに向かって知識を付ければいい。どんな場所からだって、やりたいことは目指せるでしょう。」
そのとき、人生で初めて「学歴」というフィルターのない自分の未来について考えることができた。
自分の楽しめる未来、好きなことを活かす未来、がむしゃらに向き合えるような未来。死を考えるほどのどん底にいたからこそ、本当に好きなことややってみたいことにも気が付くことができた。私はようやく、将来やりたいことを見つけた。
桜の舞う季節、迎えた入学式。進学を決めた女子大の学長は、真新しいスーツに緊張した面持ちを浮かべる新入生に向かいこう言った。
「本学を第一志望として進学してきた生徒は正直多くはないと思う。しかし、ひとりひとり全ての学生が本学での学びを通し『挑戦する知性』を得て、社会に羽ばたいてほしい。」
私は、この大学で過ごす4年間を決して無駄にはしないと心に決めた。
もし第一志望に受かっていたら。「学歴」の代わりに得られなかったもの
もしも私が第一志望に受かっていたら。
きっと自分の未来のための学びはできていなかったのだろうと今なら思う。「学歴」は確かに一つの武器になる。しかし、それよりも「強い意志」や「向き合う姿勢」が何よりも大事なのだと気が付くことができた。
大学生になった私は、自分の通った予備校のサポートスタッフとして働き始めた。受験生に寄り添い、受験を見届ける仕事だ。
母のくれた言葉に救われ私が再び歩けたように、未来ある受験生の背中を私の言葉でそっと押すために。