大失恋をしたことがある。このままずっと一緒に時を重ねていくのだと思っていた人から、突然別れを切り出されたのだ。

関係性が終わりに向かっていたことにすら気づかなかった自分が惨めで、情けなくて、食事が喉を通らなかった。数日間、身が引きちぎれるような寂しさと、心の一部分を持っていかれた空虚感でいっぱいだった。

「失恋」で傷ついた私は、人に優しくできる余裕なんてなかった

あの時の私はまさしく、「元気」と程遠い状態だった。「元気でいなさい、元気でないと人に優しくできないから」と誰かから言われたことがある。傷ついた私は、人に優しくできる余裕なんてなかった。

何回も何回も別れの言葉を思い返し、自分で自分の疵を広げることしかしていなかった。元気でない時は、自分を元気にする術さえ失うのだとぼんやり思った。

その日は健康診断だった。就職を控えていた私は、重い身体を引きずって久しぶりに外出した。1月の冷たい風が自転車を漕ぐ私の顔を容赦なく刺してきたが、それが心地よかった。

右足に力を入れてペダルを沈め、次に左足に力を込める。右、左。右、左。リズムがつくと、体が軽くなる。右、左。右、左。スピードはどんどん加速し、心拍数も早くなる。心も、軽くなる。病院に着くころには、運動不足からかだいぶ息はあがっていたが、自分はもう大丈夫だと感覚的に分かった。

家の中で塞ぎ込んでいた自分は、何かを自発的に行う元気がなかった

「運動」が良かった、と言ってしまえばそうかもしれない。でも、それ以上に私が救われたのは「行動が自動化されること」であったように思う。家の中で塞ぎ込んでいた自分は、何かを自発的に行う「元気」がなかった。

しかし一旦外出すれば、「よそ行きの自分」が勝手に動いてくれる。それまで家にいる時が本来の自分、つまり楽な「自分」で、外に出る時がエネルギーを必要とする加工した自分だという認識があった。しかし皮肉にも、加工後の決められたパターン行動をする「自分」になり、流れに身を任せることで、少ないエネルギーでリズムを取り戻すことができたのだ。

このように、「元気じゃない」ということを、普段の自分が崩れてしまった状態だと定義した場合、その崩れた心身を整えてくれるのが、普段積み上げてきた習慣が生み出すリズムであることに気づいたのだ。

私が元気のためにしていることは、習慣によってリズムをつけること

それから私が「『元気』のためにしていること」は、習慣によってリズムをつけることだ。朝早くに起床する、勉強をする、ご飯を食べ、仕事をし、趣味をして、寝る。なにも厳しく時間通り動く必要はない。私なりに、生き生きと1日の活動に取り組む。

たまには休憩したって良い。だけど、私が生活することによって生まれる波には自覚的であるようにする。そうすることで、目の前の1つ1つの習慣が私を形づくっていることを実感できる。

「生きている」という実感が湧いてくる。そうすると私の心身は、いつも心地よいリズムで弾むようになる。この軽やかなリズムは周りのリズムと共鳴したり、影響し合ったりするだろう。そうすれば、周りを「元気」にすることだってできるかもしれない。

生命のリズムを途絶えさせない、これが私の「『元気』のためにしてること」である。