滲み出る汗と涙を雨は洗い流していった。
泣きたくなんてないし、汗をかきたくなんてなかった。
それでも溢れる涙を、生理的な汗を雨は許すように洗い流していくのだった。

私の青春は、大学で入った演劇サークルから始まった

私の青春は大学から始まった。
というのも持病の発達障害からか、物心着いた時からいじめられてきて、いじめられずになにかに熱中するということを初めて大学で経験した。
ゼミの選考に落ち、ひとりぼっちになった私は血眼で友達作りをしなければならなかった。そこで目に入ったのが演劇サークルだ。

そういえばスマホで見た人気ゲーム原作の舞台面白かったなと思い、気軽な思いでその演劇サークルの「体験稽古」というものに参加した。
その体験稽古というやつは発達障害の私にも優しくしてくれる人が沢山いた。そのことにまず驚いた。ここなら私の居場所になってくれる。そう思って入部を決意した。

演劇には色々な役職がある。役者をはじめ、音響、照明、衣装、大道具など様々だが、それを取り纏める演出というセクションがある。それに私はなりたかった。
小さな頃憧れていた。学級委員長に。
高校の頃憧れていた。生徒会長に。

そんな大きなまとめ役になりたかったのは、もうひとつわけがあった。
私は自分が書いた戯曲を上演してみたいと思っていたからだ。
私は常日頃からいじめられなかったらこんな日々が過ごしたいという妄想ばかりしていた。その妄想に尾ひれをつけて小説にしたりしていた。そのためか物語を作ることが趣味になっていた。笑って泣いて大団円。そんな物語が好きだったし作りたかった。

あの時、私の脚本をやろうと声をかけられたから、頑張ろうと思えた

しかし、期待はあっさり裏切られる。
私は期日までに脚本が書けなかったし、私よりコミュ力ある同期が演出をやることになった。
素直に悔しかった。関わるのも嫌だったが、一度参加を表明したからには手伝わなければならないのがルールだった。惨めだ惨めだと思いながら演劇作りに携わった。しかも、特に友達もできなかった。
それが終わって私はそのサークルをやめようとしていた。そんなとき、一人の部員から声をかけられる。
雀の脚本やろう。そう言ってくれたのは誰にでも優しくて賢い、ちょっと仲良くなった女の子だった。

夏合宿という短編を部内で作る催し物があった。そこで私は40分くらいの短編を書いて、台本選び会議で去年落ちていた。
その落ちた台本を女の子は読んでくれて感動してくれたのだ。
もう一度頑張ろう。そんなこと言われると思わなかったから、全てを投げ出してでもやりたくなった。

結果その作品は4つあった短編の中で作品賞を取り、大絶賛を頂いた。だったらなぜ去年台本会議で落ちたのか分からなかったが、とにかく嬉しかった。初めてサークルに入ってよかったと思った。
後輩に慕われて同期に認められた。それが何より嬉しかった。人から好意的な態度を取られることが極端に少なかった私は、これが人生の最高点だと思った。

毎日てんやわんやと自分が必要とされる日が来るなんて、夢のよう

その後私は本公演での演出に選ばれるまでになった。といっても演出を誰もやりたがらなかったからなのだが。
本命の演出。私が掲げたスローガンは「誰も置き去りにしない座組(メンバーをそう呼ぶ)」だった。
私のように惨めだ惨めだといじけながら演劇をやるような人を1人も出さない。誰しもが演劇を楽しむことが出来る座組を私は作りたかった。

結局台本会議で私の台本はまた落ちてしまったので、プロの台本を使い公演を行った。
私は精一杯あちらこちらに行っては部署の管理に奔走し、役者の稽古を付けた。毎日てんやわんやしていたが楽しかった。
あの自分が必要とされる日が来るなんて!と夢のようだった。

公演が終わった。
終わってしまった。
コロナ禍ではなかったので打ち上げがあった。
和気あいあいとする打ち上げの中で、私は1人冷や汗をかいていた。
「これが終わったら私はまたなんの価値のない惨めな人間に戻ってしまうのではないか」
その思いが巡っては喧騒の中に薄れていく。
大入り袋という、公演が終わってみんなに感謝の言葉を述べながら1人づつ配るポチ袋みたいなものがあった。
配り終えて終わったと思った。自分が。

この幸せな気持ちのまま人生を終えられたらと、会場を飛び出した

深夜、へべれけになった人や寝てる人、饒舌なひとなど沢山いる打ち上げ会場の隅で思いついたように決心した。

死のう。

これ以上自分が登ることはない、下がっていく一方なら、この幸せな気持ちのまま人生を終えよう。
会場を飛び出して駅へ向かった。
途中、母の顔が浮かんでわけも分からず駅とは逆方向に歩いた。
そこで植物園を見つけた。
私は腐葉土にうずくまり、泣いた。

私が演劇にかけた汗は煌めいていただろうか。
私が演劇のために流した涙は報われただろうか。
わからない。でもたったひとつ言えるとすれば、私は全力で青春した。
それだけ。