私は、現在神学校に通っている大学生です。
神学校というのは、聖書についての学びを深める学校です。私の祖父母は、宣教師と牧師の働きをしていました。そのため、私は幼いころから信仰を持って歩んでいました。

信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することを言います。今回は、信仰で歩んできた人生を振り返って、立ち止まった経験についてのエピソードを書かせて頂きます。

高校時代、HSP気質で心身共に限界を感じていた私は…

私の人生において「立ち止まる」は「立ち返る」を意味しています。キリスト教では、立ち返ることを、悔い改めるとも言います。
悔い改めるとは、神様の元に再び立ち返ることです。

私は、昔からいわばHSP気質で、何をしても、しなくても生きにくさを感じてきました。実際に、心の問題から身体の不調に現れることも多くありました。
高3の時には、心身共に限界を感じ、パニック障害も発症していました。動けず、ベッドで数週間、天井だけを見上げて過ごす日々もありました。

私は、病気になって自分の無力さを感じ、自分で自分の命を保とうとしていたことに気づかされました。しかし、同時に、何が出来ても出来なくても、ありのままで神様に愛されていることを実感していました。

心理学を学んだことで開かれた、神学を学ぶ道

私は、この出来事がきっかけで、大学では心理学を学びたいという思いが与えられました。目に見えない「心」についての理解を深めていき、自分の経験を生かしていきたいと思っていました。

しかし、私は心理学を学んでいる中で、学問の限界にも直面しました。それは、実際に今ある心理療法だけでは、症状がよくならない患者さんがいるということを知ったからです。
そのような経験を通して、私は再び神様に立ち返り、自分の使命を自覚するようになりました。
自分の力、そして心理学には限界があるけれど「人間を造られた神様に限界があるはずがない」と信仰によって知恵と確信が与えられ、神様が示して下さった道を歩んでいく決心が出来ました。

そして、大学を卒業後、神学を学ぶ道が開かれました。
将来、心理学や神学の知識を生かして、クリスチャンのカウンセラーとして様々な分野で働きたいという思いで、神学校に入学したのですが、神様は、私の知識や能力などの一部分だけではなく、全てを用いておられることに気付かされました。

「自分の走るべきレース」を走り続けていく

「あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」と語りかけていて下さる神様に信頼し、私は、神様に全てを捧げて、生涯神様の心に叶うものとしての歩みをしていきたいと思います。聖書には、次の言葉が記されています。

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。
このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。
あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。
また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。
『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである』」
(聖書『‭‭ヘブライ人への手紙』12:1-6 新共同訳)‬‬

公認心理師になるまでの道のりは、長いですが、自分の走るべきレースを忍耐を持って、走り続けていきたいです。