大学2年生。2年前の6月、原因不明の高熱が5日以上続いた。
38度台から39度台を行ったり来たり。インフルエンザでも2日くらいで熱を下げてきた私にとっては驚くべき高熱キープ状態だった。
「死ぬかもしれない」と不安に思い、寮母さんと一緒に夜間緊急外来へ
その頃大学寮に住んでいたが、寮の管理人の方々とは仲良くも悪くもなく、私に無関心だった為、39度を超えたことを伝えても「気をつけてね」と言われただけだった。意識が朦朧としながらも、「少しは気にしてくれよ」と不満に思っていたのだが、流石に顔が赤黒くなり斑点ができたときは「あれ、私死ぬかもしれない」と不安に思い、母に自撮りを送ったところ「病院に行きなさい」と言われたので、寮母さんに伝えて夜間の緊急外来に連れて行ってもらった。
夜の11時。タクシーから見える景色が揺らいでいた。結果は脱水症状で、点滴を6時間してもらった。
熱の原因は不明だった。看護師さんはまだ点滴を続けた方が良いと言ってくれたが、初めてここまで長く点滴を行ったため私の血管が限界を迎えており、痛みに耐えられず拒否した。部屋に籠って自分で買ってきた飲むゼリーしか摂取していなかったので、栄養が不足していたらしい。今まであまり話したことなかった寮母さんは6時間ずっとついていてくれて、怖い人かと思っていたけど優しかったのだなと思った。
母がサイズ表記と間違えたTシャツデザインの話は、今もいい思い出話
母も東京に来てくれて、近くの施設で一緒に寝泊まりした。母は午前中私の看病をして、午後に吉祥寺に出かけて行き、お土産を買ってきてくれた。母はいつも仕事と家事で忙しく、たとえ看病だったとしても東京に来ることができて、自由な時間ができたことに喜んでいる様だった。
そういえば、このときお土産として胸ポケットの中にチケットが入っているデザインのTシャツを買ってきてくれたのだが、母はこれをサイズ表記のシールと思ったらしく必死に剥がそうとしていた。母は「無地のTシャツを買ったつもりだった」と主張していたが、私はこのTシャツを気に入り、今でもよく着ている。この話を私は10人以上にしている。
話を戻すと、病院に行き、お医者さんも原因は分からなかったが、もしかしたら「はしか」の可能性があると言われた。大学に連絡したら寮を追い出され、全校生徒に向けて「はしかの可能性がある生徒がいる」と一斉送信メールが出された。
私は他人事みたいにメールを見ていた。後から聞くと先生方は大変だったらしく、申し訳なかった。そして来る日もくる日もずっと寝ていたら、熱が下がってきた。人間の治癒力ってすごい。
病気の原因はきっと、葛藤のしすぎ。心と身体は繋がっているのだな
母と最後に病院に行った後、老舗らしきお蕎麦屋さんに寄った。蕎麦は美味しくて、店内に差し込む光が綺麗だった。熱の原因は最後まで分からなかったけれど、きっと心労によるものだったと思う。
私はそのとき自由に活動したく、部活を辞めたいと先輩に伝えたところ当然の如く反対されてしまい、先輩に加え同期とも少しゴタゴタし始めてしまっていた。辞めたい理由は簡単に一言で言うとバンドの解散でよく言われる方向性の違いだったけれど、先輩も同期も良い人達だった。特に同期は今でも仲良くしてくれて、みんな明るく大好きである。
人間関係で辞めるのではなかったため、とても言いづらかった。つまり葛藤のしすぎ。心からきた病気の初体験であった。心と身体は繋がっているのだなと身に沁みて感じた。
「どうするべきか」と半年くらい思い悩んでいたが、身体にガタがきたことで「もう無理なんだな」と判断することができた。極論だがどうせあと80年後には私と同年代か、それ以上の年齢の人は大抵死んでいるのだ。やりたいことはやった方が良い。
あれから2年経ったが、辞めた私も正解、辞めずに続けているみんなも正解だと思う。何も後悔していない。とりあえず、生きていることが大切。
思い出すのはベッドから見える白い天井と蕎麦屋に差し込む光と母の優しい笑顔。
あの2週間の生活は、私に立ち止まるきっかけをくれた不思議な体験だった。