人生を切り売りしている。
そして、人生は売り物じゃない。

私の生きた記録をちょっと文学的にして読みやすして、そして提出する。
1円も貰えないことになぜ時間を費やすのだろう。
ふとそんなことを思う時がある。
しかし、こうは考えられないだろうか。
私の人生がいつか誰かの涙を拭くかもしれない。
私が生きた記録が誰かの共感を呼び孤独を癒すかもしれない。
私のエッセイはそのもしもを願ったラブレターなのだ。

時間をかけて初めて書いた、拙いエッセイは、賞金が目当てだった

初めて書いたエッセイは、わたしの共感覚という物の声が聞こえてくるような感覚のことを書いた。夫と時計屋に行ったことやマグカップが割れてマグカップに申し訳なくて泣いたことなど、拙いながら時間をかけて書いた。
このときはまだ上記のようなことは全く考えておらず、「大賞とって5万円欲しいなぁ~」以外考えてなかった。それでも選ばれ画像がつき掲載され、私は有頂天だった。人生こんなことあるんだ。ちょっとだけ特別な人になった気分だった。

次に父のことをエッセイに書いた。
初めは父の日のプレゼント代わりの手紙を書くつもりだった。
しかし内容は予想よりもヘビーなものになってしまった。
私は書いてる途中から泣いていた。
父への想い、感謝、憎しみ、全てが溢れ出して、 泣かずにはいられなかった。
しかし、この泣きながら書いたこのエッセイが、私のみ知らぬ誰かに届き心を動かす。そんなことがあったかもしれない。
だったら大丈夫。
この私の涙は無駄じゃない。

先輩と約束したエッセイを書くときのルールは「嘘や誇張はしない」

そんななか、私のお仕事について書いたエッセイがユーグレナ優秀賞を取り、初めて賞をいただいた。素直に嬉しかった。私が闇雲に書いたエッセイがちゃんと読まれているという実感が出来た。
その仕事のエッセイというものは、「手元だけの手柄だけではなく、見知らぬ誰かにも私の仕事は届いて世界は回っていく」というものだった。
私の他にも自分の仕事に誇りを持ち、目先のことだけではなく見知らぬ誰かにも優しさを届けたいと願う人はいっぱいいるんだと思って胸いっぱいになった。
副賞にジュースをいただいた。私は不思議だった。ただスマホで書いた文章がジュースになった。無から有を生み出したような気持ちになった。作家はこんな空を掴むような気持ちで生きているのかもしれないと思った。

かがみよかがみでは高校時代の恋人、同性の先輩のことを多く書いている。
そんな先輩から連絡があった。
「雀ちゃんすごいね~。やっぱり昔から文才あったんだ」
そんな前置きから始まった。そして本題に入る。
「雀ちゃん。私たちの関係を書くのは良いよ。でもね嘘や誇張は絶対やめてね。いつか首を絞めることになるから」
それは最もあたりまえで、尚且つレビュー数などを気にするものにはキツい事だった。
ウソはドラマティックにしてくれるし、誇張は物事をおおごとにしてくれる。使ってしまえば楽だろう。
しかし、嘘はバレれば全ての信用を失うし、誇張がバレれば途端に冷めてしまう。なにより人を騙す。それは人としてやっちゃいけないことだ。襟を先輩に正された思いだった。正直に書こう。素直に書こう。
そう思い直した。

エッセイは人生の切り売りだ。そして、人生はエッセイじゃない

SNSでの出会いもあった。なんと私の文章が好きで、フォローしてくれる人が現れたのだ。私は文字を読むのは好きだったが、書くのはかがみよかがみが初めてだった。そんななか、わたしの文字だけで好きになってくれる人が現れるなんて青天の霹靂だった。
その人はエッセイを書くと感想をくれた。一歩ずつ進んでる。そう実感した。

そんななか、自殺未遂を起こしてから私が小さな元気を取り戻すまでの過程を書いたエッセイを投稿した。
暗い内容だからレビュー数は少ないだろうと思っていた。
しかし、レビュー数は分からないがSNSで「あなたの書いたエッセイ全部読みました。好きになりました。もっと読みたいです。フォローします」とたどたどしいメッセージを受け取った。
私は「届いた」と思った。きっとその人の孤独に寄り添えた。そう勝手に思った。

エッセイは人生の切り売りだ。
そして、人生はエッセイじゃない。

私は改めてそう思う。
エッセイを描き始めてから半年ほどになる。こんなことがあった。そしてこれからもかき続けていこうと思う。
あなたの涙に寄り添える日が来ることを願って。