弱い事は、果たして本当にいけない事なのか。

時に弱い自分は恥ずかしかったり、見せてはいけない姿のように思う。自分もそうやって今まで、そんな弱い姿を隠して生きてきた。

芸能人がSNSに投稿する姿はいつも完璧な姿で、自分も同じように完璧さを求めて、角度を意識したり、加工をしてより見てもらえるように意識をした。

服装にしたってそうだった。朝慌てて服を選ぶ、髪型をセットしてメイクをする。しかしいざ家を出て、しばらくした後、カフェのガラスに映る自分はとても滑稽に見えてしまう。結果として服屋に出向き、新しく気に入った服を買ってトイレで着替えてからまた外に出る。

友人同士で繰り広げられる「マウント取り合戦」で、自分を呪縛していた

友人関係も同じで、マウント取り合戦のような会話がカフェで繰り広げられる。「わたしは彼氏にブランド物の財布を買って貰った」。「あたしは先月旅行に連れて行って貰った」。「私は高級ホテルで行為を致した」。まるで恋愛をしているのかが当然のような会話だ。

25歳を過ぎると徐々にこのマウントの取り合戦に「結婚しているか、していないか」というテーマが新たに加わる。まるでしていない自分が恥ずかしい、といったように思えてしまう。

いつからだろうか、このような「完璧でなければいけない」「弱さなんて見せてはいけない」とそんな風に思えてしまったのは。自分でも気付かぬうちに、自分で決めた呪縛で自分自身を苦しめていたのだ。

しかし、呪縛を自分でかけているなんて、そんな簡単な事にすら自分は気付けていない。いつだって怒りの矛先は「世間」だった。

エッセイを見かけ、もがいていたのは自分だけではいないのだと知った

しかしある時、ふと自分の悩みや経験を言語化している女性達のエッセイを見かけた。そして、泣いた。

悩み、苦しみ、もがいていたのは自分だけではなかったのだ。そして、彼女達は恥ずかしがる事なく、それをオープンにしている。同時にそれを世間に言語化をして、発信をする事で弱かった自分を受け入れているように感じた。

その時、気付いたのだ。「自分自身の問題」であるのに、勝手に世間がいけないと恨んでいた自分。勝手に悲劇のヒロインになって、自分自身で呪縛に囚われていたことに。

そこで自分自身が思い悩んでいたことを、エッセイという形で言語化してみようと思い立った。そして、書けば書くほど「自分自身と向き合う事ができた」と同時に、自分がいかに「傷つきやすく、弱くてちっぽけな存在か」、目の当たりにする事になった。

しかしながら、それを言葉にできた事で「自分自身が何に対してどのように悩み、何を感じて、傷ついたのか」を視覚化する事ができた。そして、目が腫れるほどに泣いてしまった。

自分はとても繊細で傷つきやすい心を持っていたからこそ、何重にも南京錠を心にかけてまもってきたのだと。そんな自分に対して愛おしさと、申し訳なさを感じ、これまでいかに「世間という目に囚われていたのか」という事に気付かされた。

弱さは恥ずかしい事ではなく、泣いている誰かに寄り添う事ができる

そして、完成したエッセイ。自分の中で何かが吹っ切れたように感じるとともに、世間で「弱い事や完璧でない事は恥ずかしい事」と感じる女性に伝えたいメッセージがある。

弱さは恥ずかしい事ではなく、弱いからこそ泣いている誰かに寄り添う事ができる。自分の心はビー玉のように透明で綺麗だ。だからこそ傷つきやすいのだ。

でも、忘れないで欲しい。そんな自分の気持ちを言語化し、誰かの目に止めて貰えた事でまた、その誰かの気持ちに寄り添える。

また、何に悩んでいるのか言語化をすると、案外とその悩みは自分の内側というよりは外側を気にしてできた物と気付かされる。そう他人軸で生きていた自分を見つける事もできる。

だから弱くてもいい、傷つきやすくてもいい。そうした経験は誰かを救う事もできるのだから。そして、自分の軸を取り戻す事ができる一つのきっかけとなる事ができた。エッセイは、それを自分に教えてくれたのだった。