音楽が好きで、音楽雑誌に掲載されたミュージシャンのインタビューを読むことが好きだった。

高校に入学した頃は、池上彰さんの書籍に感銘を受け、本を書くような人と仕事がしたいと書籍編集者を志していた。その夢は、音楽に傾倒していくうちに、自然と「音楽雑誌の編集者になりたい」へ変わった。

大学に入り、私は「音楽メディア人」を養成する講座に応募した

メディアや出版社の就職に強い大学に行きたいという思いで受験勉強に励み、無事合格。大学生になり、上京した。

同じ年に、音楽業界でも有名な音楽ジャーナリストの方が「ジャーナリストが育たなくなっているから、本当のジャーナリストを育てよう」というスローガンを掲げ、音楽メディア人を養成する講座を始めた。

ずっと憧れていた音楽雑誌の世界を肌で感じられる、またとないチャンス。震える手で、エントリーシートというものを初めて書いた。

ーー結果は、落選。数ヶ月後の再募集にも応募したがダメだった。その後も生徒募集は定期的にあったが、スポーツ新聞のサークルの活動にのめり込んでしまい、とても別の活動をする余裕がなく、応募することはなかった。

就職活動を翌年に控えた2年生の終わり。ふと、私はこのままスポーツの世界にのめり込んでいていいのか? と思った。

野球記者を目指す同期は、着々とプロのスポーツライターさんと人脈を作り、仕事のお手伝いをさせてもらって将来の夢を叶える努力をしていた。私はスポーツ記者になりに東京に来たんじゃない。音楽の世界で働きたくて東京に来たんだ。

そう思い、片っ端から思いつく音楽業界のアルバイトに応募した。そこで決まったのが、
CDショップのアルバイトだった。

例の講座が新たなチャレンジとして、ネットメディアを立ち上げるというニュースは耳に入っていたが、サークルとアルバイトの両立で手一杯だった私はそれどころではなかった。

夢を叶えるべく、音楽業界への就活と憧れだった講座にエントリーした

それから1年。サークルを3年の末で引退し、都会の喧騒に疲れた私は、単位もほとんど取ったし地元に帰ろうと思い立ち、東京の部屋を引き払って地元に帰っていた。

地元で就職するか、夢だった音楽業界にチャレンジするか。悩んだが、ひとまず内定解禁の8月までもうダメだと諦めがつくくらい、がむしゃらにやってみようと決め、音楽関係の企業にエントリーシートを出した。

同じ頃に例の講座が立ち上げた音楽サイトを運営する生徒の追加募集があった。ずっと憧れていた講座。就職したらもう参加できないかもしれない。

就活で書いているエントリーシートが1枚増えるだけだから、エントリーシートを書いて応募した。今回もどうせダメだろうと期待していなかった。

とある企業の会社説明会兼書類選考を終えた帰り道。一本の電話がかかってくる。「この度はXXXに応募いただき、ありがとうございます」。

駅で取った電話は、最初何を言っているのかあまり聞き取れなかった。話を聞いているうちに、それが例の講座の合格連絡だったことに気づいた。考える余地もなく、私は「参加します」と答えていた。

講座では達成感を得られるけれども、それ以上に産みの苦しみがあった

始まった講座での活動は、楽しかったけど、それ以上に苦しかった。音楽という目に見えないものを言葉で表現し、音楽という目に見えないものを聴いて抱いた、目に見えない感情を文字にしなければいけない。

これだ! と思ったかたちに収まった瞬間は達成感を得られるけれども、それ以上に産みの苦しみがつらかった。書くペースは2週間に1本ほど。2週間に1本でもこんなにしんどいのに、これを仕事にしたら毎日何本も原稿を書かないといけない。これは鬱になるかも。

一方で、書くのが楽しくて仕方なく苦にならないという同期もいて、こういう人が向いているんだ、と思った。そう思った翌週くらいに、唯一新卒採用をやっていた音楽雑誌出版社の選考に落ちた。内心ホッとした。

こうして私は、高校生のときから6年間抱き続け、がむしゃらに向かっていた夢を諦め、就職したのだった。

そしてなんの因果か、今、Webメディアの編集者をやりながら、こうして趣味でエッセイを書いている。今の私は、純粋に「書くことが楽しい」。あのときあのやり方がフィットしなかっただけだったんだ、と思う。これからは自分が「楽しい」と思える文章を自分のペースで書き続けていきたい。