別に、何の変哲もない家族だったと思う。
引っ越しのとき、1枚だけ持ってきた家族写真には、IT系大企業に勤める賢そうな父と、看護師の優しい母、そして私立幼稚園の制服を着たかわいらしい一人娘が写っている。
きっと、周りの人はわたしを幸せだと思っていただろう。たぶん、両親はわたしをそれなりに幸せにしてくれようとしていたのだと思う。
あまり、うまくいってはいなかったけれど。

26歳の春、わたしは「家族」をやめた。両親は今もそれを知らない

あの写真を撮った日から長い時間が過ぎた26歳の春、わたしは両親と家族でいることをやめた。人生で初めての反抗であった。そして両親は、今もそれを知らない。

社会人5年目にして初めて一人暮らしをすることになったわたしは、慌ただしい日々を過ごしていた。
引っ越しの準備、新居の手配、お金の工面、新しい家具の選定、自分1人でやらなくてはいけないことがたくさんあった。その中で、わたしは1つの計画を立てていた。
「書類の上だけでいい。この家族から抜け出そう」

家族を愛していないわけではない。縁を切りたいわけでもない。現に両親と離れて暮らす今も定期的に連絡は取っている。
それでもただ、わたしはもうだれの所有物でもないのだ、ということをどこかに宣言したかった。ただ自分1人で立って生きたかったし、その証明が欲しかった。

「ママのおかげ」。そう笑顔で返すと母は満足そうに微笑み、安心する

わたしは、幼いころから、いろいろと手をかけてもらったと思う。
「幼児教育が大事だから、あなたにはたくさんお金をかけたの」
だからわたしの人生は「成功」したのだと、母は誇らしげに言う。
幼児向けの英語教材をたくさん見せたから。たくさん本を読ませたから。ディズニーランドにたくさん連れて行ったから。思考力を養う幼児塾に行かせたから。
「あの大学に入れたのも、ママのおかげだね」
うん、ありがとう、感謝してる。わたしはいつも笑顔でそう返す。
母が満足そうに微笑むと、わたしも安心した。母の人生には、わたしという成果物が必要だったのだろうと思う。だから、わたしは母の人生のトロフィーでいようと思った。

わたしが何か間違ったことをすると、母はよく泣いた。
「ちゃんと育ててあげられなくてごめんね」
ちゃんと育っていないわたし。正しくないわたし。母の大切なトロフィーが傷つけられて、泣いているのだと思った。
わたしは、誰に言われることもなく、母の望むとおりの答えを自分で出すようになった。
そして今、わたしの人生は、「成功」している。1つとして、後悔はない。

「家族」をやめても、母のトロフィーであり、父の自慢の娘でいよう

わたしはあまり父と話した記憶がない。それでもわたしは父が好きだった。
時々話すと、わたしの知らない世界のことをたくさん教えてくれたし、学校で勉強したことを話すともっと深い知識を教えてくれた。
ある時から、父は酒におぼれるようになった。だんだんと痩せてきて、わたしの好きな賢そうな目ではなくなっていった。いつのまにか、自分の身の回りのことがひとりではできなくなっていた。
それでもわたしは父が好きだった。父は、自分の人生をあきらめているように見えた。
仕事を辞め、ただ酒を飲み続けるだけになっても、わたしが話しかけると優しく答えてくれた。
父には、これといった趣味もなかったし、母との関係も長らくうまくいっていなかった。両親は既に他界して、仕事もなく、ただ全く生きているだけだった。
それでも一人娘のわたしだけは一流の大学を出て、就職し、仕事も私生活も順調に幸せに暮らしている。父にとって、わたしは死なない理由になっていたのだと思う。
だから、わたしは最後まで、父の自慢の娘でいようと思った。

分籍届を出した日、わたしは戸籍上でだけ、両親と「家族」ではなくなった。
それでもわたしはこの先もずっと、母の人生のトロフィーであり、父の自慢の娘でいようと思う。
いつかこの役割に疲れた時、わたしは、自分1人だけが載った戸籍謄本を眺める。
わたしは誰のものでもない。わたしが望んで、この役を演じているだけなのだと。