あの夏の日、私はたしかに恋をしていた……。

彼とは出会い系アプリを通じて知り合ったが、イメージしていた人物像とは違い、とても真面目そうな印象を受けた。
切れ長の目元は、黒縁眼鏡によってシャープさを際立たせ、前髪を眉の上で切り揃えている短髪スタイルは常に清潔感を保っていた。
端正な顔立ちの部類と言っていいだろう。ストライプ柄のネクタイを締め、紺のスーツを着こなしている彼はすらりとした長身に見えた。

人懐っこい笑顔で自己紹介する姿に惹かれ、胸が波打った彼との出逢い

出張がてら名古屋に遊びに来ていた彼の手には紙袋がぶら下がっていた。横浜名物崎陽軒のシュウマイ。重みのある紙袋を渡すと、人懐っこい笑顔で自己紹介をしてくれた。
それが彼との初めての出逢いだった。第一印象で心惹かれるものがあった。私は胸が波打つのを感じていた。思いのほか緊張していたらしく、紙袋を受け取った右手は少し汗ばんでいた。
初めて会ったとき以来、出会い系アプリを通して続いていたやりとりはLINEに変わり、たまに電話もするようにもなった。

だが、2度目の誘いはなかった。神奈川と名古屋は遠い。出張のついででもないと彼はこちらに来てくれないのだろうか……。
会いたい気持ちが膨らむ一方で、「会いませんか?」のひと言が中々言えずにいた。彼との初デートから数ヶ月が経ち、7月も終わりにさしかかろうかという頃、水族館が夏季限定でサマーナイトアクアリウムを実施することを知った。

勇気を振り絞り2度目のデートに誘うと、彼はものの数秒で快諾

神奈川には八景島シーパラダイスや新江ノ島水族館がある。わざわざ地元の水族館のイベントのために横浜から出向いてもらうなんて……とは思ったが、なんとか勇気を振り絞り初めて自分から誘ってみることにした。彼はものの数秒で快諾の返事をくれた。

2度目に会う彼は1度目のときとは別人のように見えた。
「……私服、似合ってますね」
「私服が似合ってないと困るなぁ。スーツの方が良かった?」
「いえ! 私服もスーツも素敵だと思います」
「ありがとう」
屈託のない笑顔が、私の目には初めて会った日より眩しく映った。
水族館の帰り、隣の遊園地の観覧車でファーストキスをしたのを今でも覚えてる。別れ際、彼から新幹線の切符をもらった。
「今度はきみが横浜においで。中華街を案内するよ」
「ありがとうございます。楽しみにしてますね」
そう言うと彼は改札口の奥へと消えていった。

ファーストキスをした日以来、ふたたび彼に会うことはなかった

この日以来ふたたび彼に会うことはなかった。続いていたLINEも音信不通になり、何度かメッセージを送ってはみたが連絡は一向に来なかった。彼の母親から返信をもらうまでは。
彼は私と別れた直後に交通事故で亡くなり、二度と逢うことは叶わないと告げられた。
涙がとまらなかった。私はずっと嫌われてしまったのだと思っていた。嗚咽をこらえながら、気づくと手に持っていたスマートフォンを起動し、出会い系アプリを削除していた。

あの夏から2年経った今でも私は彼を想っている。
コロナが世界を一変させ、人とのつながりは2年前よりも希薄になりつつある。恋人はおろか友人とも最近は会えていない。私はあれから恋をすることに怯えているのかもしれない。
大切なものを一度失った経験は私を変えた。また誰かを失うくらいなら誰も好きになるものか。ときめきなんて、恋なんて、そんなものなくても生きていける。
死ぬまで恋はしないと、そう決めた夏から、私の心は固く凍ってしまった。もう二度と溶けることはないだろう。