今年の夏は何も変わらない。何も変わっていないというのは、いつもどおりの夏と変わらないという意味ではない。

コロナ禍になってから過ごしている日常と、何も変わらないのである。学校が夏季休業であるため、ただ単に暇な時間が増えただけだ。

バイトに行き、YouTubeでゲーム実況を観たり、アマプラで貯めていたアニメを消化したり、Twitterでオリンピックの状況を把握したり。なんだ、このつまんない夏は。

パンデミックさえなければ、「普通の大学生」をやりたかった

本当だったら、サークル活動があったはずだ。運転免許やゼミなどの合宿に行くのもよかっただろう。ただ、コロナはあり得たはずの“日常”を奪った。私だって普通の大学生をやりたかった。

私の場合、大学1年時からほぼ全てが遠隔授業だった。学校に登校することすら許されていなかったため、もちろんサークルの募集も禁止。やっとサークル活動が一部解禁された時には、もう私はすでに2年生になっていた。

どうしてくれるんだ。今さらサークルに入ったって、やりづらいことこの上ない。入ったとしてもロクに活動なんてできないだろう。1年程度ですぐに引退だ。

サークルなどに入ったことがないので想像でしか語れないが。勘違いしないでもらいたいのは、そんな日常を送るために大学に入ったわけではないということだ。

学びたい分野があったために大学に入学した。なので今、少し不満はあるが学びたいことが学べている点は概ね満足である。

だが、普通の大学生なら当たり前のように享受できたであろう日常を今の世の中なら“贅沢”に分類されてしまうことが、私は残念でならないのである。こんなパンデミックさえなければと悲嘆したくもなる。

普通の「大学生の夏休み」を過ごせていたら、文章を書くことはなかった

ところが私は、意外にも一人を充実している。一人で映画館に行き、映画を観る。今まで積読していた本を読む。資格の勉強をする。ワクチンを打ちに行き、「あら、お若いですね!」と看護師さんに言われて、いやぁと照れる。銭湯に行き、ロッカーに頭をぶつけ「大丈夫?」とおば様に心配されて苦笑いをする。

一人で行動しているつもりでも案外、人はいるものである。明日にでもちょっとしたハイキングに行くつもりだ。もちろん自分が住んでいる都道府県からは出ない場所である。まぁ山が閉山していたら諦めるつもりだが。

コロナ禍を通して、私は文章と向き合うことが多くなった。特に夏季休暇はどうしても1日が長い。何なら、ゼミの課題が出ているのだが、それをすっぽかして日がな1日文章を書いている。

昔から夏休みの宿題は最後の方に慌ててやるタイプなのだが、まだ慌てていない自分に驚きである。文章を書くことは昔から好きだったが、もし例年の大学生が送るような夏休みを過ごしていたら、おそらく私は文章を書こうとはしていなかったかもしれない。

制限しなきゃいけないことも多いけど、今年の夏は今しか過ごせない

ただ、こんな日常もいつかは“贅沢”になってしまうのだろう。社会人になれば、毎日が仕事。私は体力がないので、おそらく休日は寝て過ごすことになりそうだ。

就職とか結婚とか将来のことは今はあまり考えたくない。こんなのんびりとした休日を過ごすことはなくなってしまうのだろう。

実は昔から私はあまり長期休暇というものが好きではない。長い暇をどう過ごせばいいのかよくわからないからだ。それよりも、学校で友達に会ってバカみたいな話で盛り上がりたい。

ただ、ひとつ言えるのは今年の夏は今しか過ごせない。おそらくこのような非日常が当たり前になりつつある夏は数回ほどだけだろう。というより、あと数回も来てほしくない。少しでも過ごしやすい、いつもの夏が早く来てほしいものだ。

だが、どんな夏であれ、楽しもうと思えば意外と楽しいものである。私はもう少し、夏を楽しもうと思う。