高校生の私は反抗期真っ盛りで、毎日のように母とぶつかった。
放任主義で、今時女は大学に行かなくていいなんていう親だ。
初めて頑固に意思を通し、親元を離れ大学の寮に入ることを決意
元々頭は良くなかったし、中学時代も不登校になったりして親には迷惑かけてきた。でも、高校で勉強することが少しずつ好きになって、自信がついて、やりたいことも見つかってきた時期だったので私は自分の意思を通して、なんとか自分で調べて大学に行く方法を模索した。思えば昔から習い事など全く続かなかったので、初めてこんなに頑固になったかもしれない。それほど真剣だったのだ。
家から1時間ほどの県内の大学。通うこともできなくもないが、家と学校の往復で終わってしまうし親元を離れてみたい気持ちもあった。一人暮らしの費用は出して貰えなかったので、寮しか選択肢がなかった。引っ込み思案で、いわゆる隠キャとして高校まで生きてきた私にとって、集団生活でうまくやっていけるだろうかという不安はあったが、背に腹はかえられないと思った。自分の未来を盲信していたのだと思う。
無事に受験は合格し、新生活の準備をしている時、普段はあまり喋らない父が「可愛い子には旅をさせろ……か」と呟くように言った。
私は末っ子で、上の兄弟とは一回りも年が離れている。当時は家に上の兄弟もいた為、大袈裟な……としか思わなかったが、結婚して子供を持った今なら当時の父の心境が理解できるような気がする。
出ていく前日、祖母が亡くなったことだけを理由に母は泣いていた
母は、出て行く前日に少しお酒を飲み泣いていた。どうしたの?と聞くと「おばあちゃんが亡くなったからね」と言っていた。確かに私が出て行く少し前に祖母が亡くなったのである。母にとっては義理の母であるが、生い立ちが複雑な母にとっては本当の親のような存在なのだろう。
そんな人の死別と、娘の引っ越しが重なり寂しさが募ったのではないかと思うが、母は素直な人ではないので私のことについては触れなかったのだと思う。
そうして新生活の準備をするうちに、最後の夜となった。夕飯は特に私の好物という訳でもなく、お刺身にコロッケだったような気がする。いつもの食卓だ。食事が終わり、自分の部屋で私はAMラジオを聴きながら、家族全員に手紙を書こうと決心する。
父には母と喧嘩をしないように、母には子育てばかりの人生だったのでこれからは自分の人生を過ごして欲しい、兄には両親のことをよろしくね、姉には私がいなくなって一番寂しがるのは姉だろうということと体に気をつけてというようなことだ。
不自由で他の家のように理解がある親ではなかったけど、感謝している
書いているうちに心の中にあった不安やモヤモヤが昇華され涙がポロポロ溢れてきた。ラジオからハナレグミの「さよならcolor」が流れてきて更に涙を誘う。
不自由で他の家のように理解がある親ではなかったし、部屋も狭い6畳間を姉と2人の生活だったけど、たしかにここにふるさとはあったのだと感じた。
翌日、家族全員に挨拶と手紙を渡し、高速バスに乗り場まで母に送って貰った。泣かないと決めていたが涙がこぼれ、早く行きな!と鼓舞される始末。車の中で泣くだけ泣いて、高速バスで揺られる頃には、未来への晴れやかな気持ちでいっぱいだった。
それから2年間、私は人生で一番楽しくもがいた時間を過ごすことになった。大変だったこともあったけれど、あの時なんだかんだ送り出してくれた家族には感謝している。
故郷を離れて初めて、親のありがたみや自分自身の生き方を見つめ直すことに繋がったから。