「出身地はどこ?」。そう聞かれて、迷わず答えられる人が羨ましい。
父の転勤で日本全国を転々としてきた私は、「出身地」と自信を持って言える場所がない。そのため、住んだ年数は少ないが自身の出生地でもあり、別の都市に住んでいる間も年に2回は帰省で訪れていた、両親の出身地を自分の「出身地」ということにしている。
所詮、質問者が期待しているのは、その土地の出身者ならではの豆知識やグルメなどの話である。出身地が出身地たる最もらしい理由さえあれば、実際住んだ年数などどうでもいい。逆に長く住んでいようとも、幼い頃に近所で遊んだ記憶しかない土地では話が続かないのだ。
地方に住んでいた私の目に映った横浜は、「何でも手に入る街」だった
あえて都市名は明かさないが、私の「出身地」は国内有数の観光都市ということもあり、職場や友人の間で度々話題にもなる。それに備え、現在は両親が住んでいる私の「出身地」に帰るたびに、まだ行ったことのない観光名所や老舗、話題の新店などをチェックするという涙ぐましい努力をしていたりする。
私にとって「出身地」は話題作りのための、いうなれば「ビジネスふるさと」なわけだが、心からふるさとと呼べる土地となると悩んでしまう。
幼い頃に最も長く住んだ土地は今ではあまり縁がなく、8年前に旅行で訪れた際には、街並みが変わりすぎて少しも懐かしさを感じなかった。代わりに私のノスタルジーを掻き立てるのは、10代前半に4年住んだだけの横浜である。
それまで地方都市に住んでいた私の目に映った横浜は、「手を伸ばせば何でも手に入る街」だった。全国区の雑誌やTVで見るようなものも近くのお店ですぐに買えるし、東京にもすぐ出られる。
冬でも雪がないので自由に移動できる。中学校も、受験すれば決められた地元の学校に行かなくてもいいし、高校も大学も、無数の選択肢がある。
そんな街に住む人々は楽しいことにも将来のことにも貪欲で前向きで、キラキラして見えた。周りのポジティブさに影響を受けて、私自身も、自分の将来に対して疑いようのない希望を持つようになっていた。
「頑張れば何でも手に入る」と思っていた頃の横浜生活は、幕を閉じた
部活も勉強も全力だったあの頃。頑張れば何でも手に入ると思っていた、あの頃。
そんな生活は、親の実家の介護問題により幕を閉じた。1年の約3分の1は雪に閉ざされる街で、高校の授業以外は、家事と下の兄弟の世話をしなければならない生活になった。
欲しいものがあっても簡単に買いに行けないし、「遠くの大学に行きたい」と言おうものなら、「身勝手だ」となじられた。
そんな生活に嫌気が差して家を出たものの、今度は貧困生活に苦労することになった。欲しいものを追い求めれば追い求めるほど泥沼にハマっていくようで、何かを欲することに臆病になっていった。
夢から覚めて大人になった今でも、「横浜」は私にとって特別な場所
人生、「手を伸ばせば何でも手に入る」なんて幻想だったと気づいてからも、やはり横浜は私にとって特別な場所だ。
通学の時に友だちと毎朝待ち合わせた、最寄りの市営地下鉄駅前の丸いオブジェ。部活の仲間で見に行った、みなとみらいの日本丸前やクイーンズスクエアでの吹奏楽演奏会。練習の時に、音楽室から遠くに見えた、夕焼けに染まるランドマークタワー。ふとした瞬間、まだ幼い私の目に映った横浜の景色は、今の自分の目で見るよりも高い彩度と明度を持って、記憶に刻み込まれている。
新横浜の駅のホームに降り立って、アスファルトと自然の匂いが混じり合う、少ししっとりとした柔らかな風を感じる度、その記憶の断片が蘇るのだ。それらの記憶は、当時の私が抱いていた人生への希望を伴っていて、あの時と比べると随分臆病になってしまった私を奮い立たせてくれる。
「横浜が私のふるさとです」とは、恐れ多くてまさか口には出せない。でも、こんな田舎者でも、横浜がふるさとだと心の中で思うことくらいは、どうか許してもらえないだろうか。