誰かにとっての1番になれるんだろうな、なんて甘い考えを持って生きていた。
母は賢く愛情を周囲に分け与えられる美しい女性で、父は寛容でいて継続は力なりを体現する男性である。2人は喧嘩するほど仲が良いという言葉通りに、ことあるごとに喧嘩をするが、その分笑いあうことも多い夫婦だ。
だから尚のこと私にとってのパートナーが欲しくなり、相応の年には現れるものだろうと信じていたのだ。

人生の転機になった彼が夢に出てきた瞬間、私の一日は終わりを告げる

無理だろうな、と考えるようになったのはつい五年程前か。自分にとっての転機といえば聞こえは良いが、こんな変わり目は人生において必要だったか今でも分からない。軽度のPTSDに陥るのは自身の弱さだと思う。端的にいえばセクハラが原因なのである。
夢に彼が出てきた瞬間に、私の一日は終わりを告げるのだ。トイレの中で頭を抱えることは未だにあるけれど、嘔吐はしなくなった。これは成長ではなく、時間が経てば解決してくれるでもなく、身体の衰えによる諦念だろう。吐き続けられる屈強な喉を持っていたらもう少し違う結果になったのかもしれない。
とはいえ、自身の見た目に過剰なコンプレックスのあった過去の自分からは「選んでもらえるだけいいだろ、文句を言うなよ」と罵声をぶつけられるかもしれない。
しかし、事後の私はただ弱々しく笑いながら首を横に振る。もし過去からタイムスリップしてこちらに飛んできた自分がいるのなら、私はただ経験不足をなじるだろう。
「お前は相手の気持ちを考えない告白を繰り返されて、断ったら不機嫌になる相手と職場もプライベートも一緒に数年間過ごしてから言えよ」なんて。自分を恫喝して何になるというのか。

早朝に変わっていく上空の光景は、感動的でもないのに泣きたくなる

深夜から早朝に変わっていく上空の光景は、感動的でもないのに泣きたくなる。寝るのに失敗して布団の上で擬音を吐いていると、青白い光が急に差し込んでくるからそれを合図にベランダへ出るのが習慣となっている。
ワンピースみたいな長さのくたびれたTシャツだけ身に着けて、ぼさぼさの髪の毛とぼやけた視界で境界線を眺めている。すると、ここから飛び降りなければという気持ちになるのだ。だが、実際には裸足がべったりとコンクリートにくっついている。
目の前で青が白になっていく。冷たいだけの光に温かさが混じる。柔らかい光に比例しない、しんと冷たい風だけが頬と二の腕に刺さって、励ますでもない車のエンジン音が少し遠くから聞こえてくる。
数年前から腎臓を痛めていて、飛び降りなくともきっと身体は長くない。眼下に広がる冷えたコンクリートの中、1人タクシーにも乗らずふらふらと足を運んでいた記憶はやたらある。実際はそんなわけないのに、妙な魔法みたいにキラキラ輝いていた気もしてしまう。
ただ、狂ったように摂取していた頃を思うと「よくもまあ」と呆れてしまう。まき散らされた様々が頭の中を走馬灯のように巡っていくが、半分は吐瀉物に塗れて不鮮明なのだ。

あの日に戻りたいわけではないけど、記憶が日の光みたいに降ってくる

透き通るようなとろみも真っ赤なシミも弾ける泡の質感も、次の日の頭痛と吐き気が全部奪っていった。便器に顔を突っ込んだまま朝を迎えていたあの日に戻りたいわけではないけれど、どれも今目の前で振り続ける日の光みたいに無駄に温かい記憶になって降ってくる。
テレビもラジオも音楽も流さずに、ただ雀の声が大きくなっていくことを確認しながら、私は部屋へ戻る。
幸い本日は公休日だから、今から2度だって3度だって眠れるのだ。敷布団に足を滑らせると当たり前にぬるかった。暖房器具が起こす微風ではないのだから、身体が温まるわけはない。むしろちょっとだけ手足が冷えている。数分間で得られるものなどないことは理解しているつもりで、乱暴に布団をかぶった。
変化と言えば足が砂粒で汚れるだけなのだが、止められずにきっとまたやる。セロトニン不足には日光だと以前医師から聞いたから、これはこれで栄養になっているのだろうか。数秒でも生き長らえる為の役に立つのなら儲けものだ。