「少し遅れてしまいそうです」。本当は終わらせて帰ることもできなくはない仕事を前に、待ち合わせギリギリの時間まで取り組んで、案の定電車の中からそんなメッセージを送る。
初対面の彼との待ち合わせは、その程度の温度のものだった。
「グレーのシャツを着ているので目印にしてください」。返ってきたメッセージに、顔を見て嫌だったらそのまま帰ろうと思う。その気持ちがたった5分後にはひっくり返ってしまうことなんて知らずに。

初めて「タイプだ」と思った彼。可愛く見せようと躍起になった夜

待ち合わせ場所でぱっと見つけた彼を一目みて、初めて「タイプだ」と思った。人に対してタイプだと思ったことなんてなかったし、好きになる人はこれまで特別見た目が好みなわけでもなかったのに、彼は私の好きを集めたような人だった。色白・細身・程よい身長・優しい目元・中性的な印象。自分の中で、モードがしっかり切り替わる音が聞こえた。
歩き始めてすぐ、勤務地と業界から会社名をズバッと言い当てられて同業他社だと判明した彼とは、話していてくすぐったい気持ちが止まらなかった。まだ明るさが残る東京の夜、営業時間の短縮されたお店で食事をと摂りながら、これまでの経歴とか恋とか家族とか、他愛無い話をちょっとずつ進めた。

いつもなら初対面なんて面倒だとかいう気持ちが先行してしまう私でも、今夜だけはただひたすらに自分を少しでも可愛く見せようと、意識せずとも躍起になってしまう。話しながら、彼の転職した時期が私とほぼ被っていたり、彼の元いた業界が私のそれとなんとなく被っていたり、誰とでも少しはあるようなほんのりとした共通点が、なぜか煌めいて見える夜だった。

二軒目はダーツバー。彼は何もかもが完璧に見えた。

早い閉店時間を迎えた洋食屋を後に、「まだ早いですね」と言う彼の横を歩く。このあとどうしましょうかと探る会話をした後で、大人になると新しい経験ってなかなかしないよね、という話になった。私はこの手の話が大好きで、何も言わずともこの話を出してきた彼が、ますます素敵に見えてしまう。
今年に入って新しく楽器を始めたという彼が提案した二軒目の候補は、静かなカフェかダーツバー。「ダーツバーって、行ったことないです」。私のその一言で、行き先は一択になって夜の街を歩く。
道中歩く速度を調整してくれるところも、気を遣わせずに傘を持ってくれるところも、お店の入り口で段差を気遣ってくれるところも、服を褒めてくれるところも、何もかもが完璧だった。

人を好きになることなんて、アラサーの私にはもうないと思っていた

初めて足を踏み入れたダーツバーは、これまでの人生で全く縁のなかった空間で、彼も来るのは3回目くらいだと言う。忘れかけた記憶をなんとか取り戻すかのように、ダーツの上に映ったモニターを見ながらルールを説明してくれる彼と、彼とこの場にいられることがただただ楽しくて笑みがこぼれてしまう初心者の私のコンビは、どちらもダーツがあまり上手くなかった。
私の下手さは相当なもので、投げた矢は刺さらなかったり横に逸れたり、隣のお客さんのエリアに入ってしまったりした。それでも彼がもう少しましになるポイントを教えてくれて、最終ゲームでは私が勝つまでになった。

ひと遊び終えて飲み物片手に席で話していた時、「私の中にもまだこんな気持ちになれる部分があるんだ」ということを実感して、心の底からとにかく満たされた気持ちでいた。新しく人を好きになることなんて、アラサーになった私にはもうないのだと思っていたし、だからこそこれまでの恋愛や昔好きだった人を手放しきれないような部分があった私には、この感覚が本当に貴重で大切で嬉しかった。

彼との出会いは、人生の歩みを進める一歩。そう心から思えた

テレビで見た「相手に好意を抱かせるコツ」なんていつ使うんだろうと思っていたけれど、ここぞとばかりに使えるシーンが今夜だった。
彼とこれから、どうこうなれるかはわからない。わからないけれど、それでも今夜過ごした時間は私の中で大切な思い出のひとつになるし、人生の歩みを進める一歩になったとちゃんと思える。これから新しく人を好きになることだってできるし、私はどんな道を選んでも絶対幸せになれると、そう心から思える夜になった。

長い人生のうち、彼はたった数時間を一緒に過ごしただけの相手になってしまうかもしれないけれど、今夜だけは彼と最高に楽しい夜を過ごした、その思い出に浸って眠りに落ちる。