「ふるさと」と言われて思い浮かべるのは、高校生の私が生きていた場所。すべてが小さな社会に詰めこまれ、息ができなかった。

そんな苦しい思いが詰まった、苦い記憶が蘇る。そんな場所のことを思う。

成果が出る勉強が好きだったから大学進学を目指したが、母は反対だった

高校生の頃、家は帰りたくない場所だった。学校が閉まる18時半まで教室に居残り、勉強する。塾に通っていなかった私は学校を追い出されると、ショッピングセンターのフードコートに移動してそこが閉まるまで勉強を続け、ギリギリまで足掻いて帰宅をした。

気が重い帰り道、田舎道を自転車でかける。どこにも行けない気がしていた。

やったらそれだけ成果が出る勉強が、私は結構好きだった。高校2年生になると、模試で学年1位になり、担任の先生に「県内の国立大学に行くのはもったいない、もっと上の大学に行けるよ」と言われて驚いた。

大学に疎かった私でもテレビで「高学歴」と言われているような大学に、頑張れば受かるかもしれないらしい。高2の夏に大学の資料を取り寄せ、何校かオープンキャンパスに行き、憧れの大学もできて、秋口からは更に勉強に精を出すようになった。

そんな矢先、母から「大学に行くの?」と言われた。私は兄と弟に囲まれた真ん中っ子で、「男の子は将来のお嫁さんをもらったときに大学くらいは出ておいた方がいいから、大学に行かせようと思うけど、女の子は手に職だから大学なんて行かなくて良いんじゃないの?」と言うのだ。

私は「女」だというだけで、大学進学という夢をワガママと扱われた

私は幼い頃から、親戚が集まると、父や伯父さんたちが飲みながら話しているところに加わって話をする、口達者な子どもだった。大人から見るとそれなりに聡明に見えたらしく、よく伯父さんは「K(私)が大学に行くなら、伯父さんはお金を出すよ」と言っていた。

結局、私が高校生になる頃には伯父さんの家もいろいろあり、それどころではなくなってしまったのだが。幼い頃からそうやって大人に可愛がられ、父からも「行きたいところに行ったらいい」と言われていた私にとって、母の言葉はまさに「寝耳に水」だった。

え? 私、大学行けないの……? 母が大学に行くなと言った理由は、家計の事情が大きかった。それでも、何より許せなかったのが、特別大学に行きたがっているわけではなく、流されるままに大学進学を希望しているだけのように見える兄は大学に進学させてもらえるのに、行きたくて勉強を頑張る私はダメということだった。私は「女」だというだけで、大学進学という夢を、私のワガママと扱われたのだ。

家に帰りたくない理由のひとつが、この価値観の合わない母と顔を合わせるのが嫌だというものだった。もうひとつは、母と、父や同居していた伯母の折り合いが悪く、進路の話と関係なく、母の精神状態が不安定だったことにある。

そういうわけで、一時期は家に帰りたくなくて、ときには職員室で泣きながら先生に話を聞いてもらい、それでも時間になると家に自転車を漕いで帰る……それが私の高校時代だった。

大学進学を反対した母は私に「お前は家を出なさい」と言った

それから、できるだけの予約の奨学金に申込み、あとは合格するだけ、というところまで自分が全部手続きを整えた姿を見て、母が折れた。「そこまでして行きたいなら好きにしなさい」と。

そして、大学進学を反対した母はこうも言った。「お前は家を出なさい」と。大学進学を反対していた母が言った、一見矛盾したこの言葉。私にはこの狭い田舎の町や家は息苦しくて仕方なかったことに母は気づいていた。だから、母は私をここから逃したかったのだ。

無事、第一志望の大学に合格をした私は大学進学とともに上京をした。それから10年。「ふるさと」と思い浮かべると、未だにこの鬱屈とした高校時代の記憶が蘇る。東京は人が多くて目まぐるしい。こんなにも人で溢れているのに、誰も私のことを知らない。私は世界が広いことを知った。

時間が経って、母からは当時の至らなさを詫びられ、和解をしたし、今なら当時の母のことも理解できるようになった。本当に家計が苦しいなかで私のワガママを許してくれた彼女には感謝しかない。

電車で2時間。高校生のときは遠いと思っていた東京と地元の距離も、今はそうは思わない。東京と比べたらないものが多くて、苦しい記憶が残っている場所だけど、それでも私を育ててくれた街で、大事な家族が住む街。今はそんなふるさとが大切で、愛おしい。