私のふるさと。今でも実家で暮らしている私にとって、それは文字通りの意味では、今も住んでいるこの地ということになる。でも、それ以外に「ふるさと」があるとすれば、それはどこだろう。

そう考えた時に真っ先に浮かんでくるのは、父親の実家。「おばあちゃんの家」と呼んでいるところだ。

昔から「おばあちゃんの家」が大好きで、帰省するのを心待ちにしていた

昔から、おばあちゃんの家が大好きだった。高校ぐらいまでは、年に3回ぐらい帰っていたと思う。いつも帰省するのを心待ちにしていた。「ここに住みたい」と思ったこともあったほどだ。

残念ながらそれは叶わなかったが、だからこそより一層、帰るのが楽しみになっていた。そしていざ帰ってみると、今度は滞在日数がだんだん減っていくことに、ひそかに寂しさを覚えていた。おばあちゃんの家の何がそんなに楽しみだったのかと問われると、実ははっきりとこれだとは言えるものがない。

そもそも車を使えば1時間ぐらいで行ける場所なので、そんなに珍しいところではない。「ふるさと」という言葉にぴったりの、美しい田舎の風景があるわけでもない。むしろ自分の家よりもずっと都会にある。

おばあちゃんの家にはおじ一家が同居していたこともあり、自分の家よりも相手をしてくれる人は多かった。普段は会えない親戚と一緒に遊べるのは確かに楽しかった。

だが、いつも自分の家でしているのと同じように、その辺でひとり遊びをしていることも多かった。それに、歳を重ねるにつれ、遊んでもらえるかどうかなんて問題ではなくなる。

おばあちゃんの家に流れている「穏やかな空気」が居心地が良かった

じゃあ、一体何がそんなに好きなのだろう……。強いていえば、それはたぶん、おばあちゃんの家に流れている穏やかな空気だ。

朝は、それぞれ適当な時間に起きてきて、思い思いに1日をスタートさせる。その後、昼や夜にみんなでご飯を食べる以外は何でもいい。ずっと食卓でよもやま話に花を咲かせていてもいいし、部屋にこもって仕事をして、その合間にまた休憩しに来てもいい。

来るもの拒まず去るもの追わず。家全体に、そんな空気が流れている。何者であってもいい。というか、何者かである必要もない。私が普段どこで何をしていようと変わらず迎え入れてくれる。おばあちゃんの家のそういうあたたかい雰囲気が、私は何よりも好きなのだと思う。

そんな「ふるさと」があって、私は心底幸せだと思う。だが、そんな「ふるさと」はいつまでそこにあり続けてくれるだろうか。最近、そう感じることが多くなった。

おばあちゃん家に住む人は減っているけど、今も雰囲気は変わっていない

おばあちゃんの家に集まる人の数は、私の小さかった頃よりも確実に減っている。私が小学校に入る前に、おじいちゃんが亡くなった。

「おばあちゃんの家」と言っておきながら、実は当のおばあちゃんも数年前に亡くなっている。さらにその数年前におじも他界していて、今その家に住んでいるのは、おばといとこの2人。だから、厳密に言うとそこは今「おばちゃんの家」だ。

そんな今でも、私の好きな雰囲気は変わっていない。最近は年1回、正月ぐらいしか帰らなくなったが、やはりその1回をすごく楽しみにしている。でも、こんな風にみんなで会えるのもいつまでだろうか……という思いが、ふとした時に頭をよぎる。

人は歳をとる。そして、いつかはいなくなる。生まれ育った街の風景が少しずつ移り変わっていくように、私の「ふるさと」もやはり様変わりしていくし、いつかはなくなってしまうのかもしれない。それは寂しいことではあるが、時の流れが止められない以上は、どうしようもないことでもある。

だからこそ、今この時の「ふるさと」を大切にしたい。ここ最近の世の中的には、心置きなく帰ることもままならなくなっている。でも、たとえ今は帰れなかったとしても、私の「ふるさと」はまだそこにある。そのことを、この上ない幸せとしてかみしめたいと思うのだ。