「ようこそ、心のふるさと会津へ」。
大学のある新潟県から、会津の実家に帰る山道でかならず見かける看板だ。
高速代をケチりたいのと平坦な道では眠くなってしまうという理由から、わたしはよく一般道をつかって帰省をしていた。

2時間ほどかかる帰路の楽しみの1つは、できるだけ海沿いを通って帰ること。
新潟の大学に通ってよかったことの1つともいえる。

青い空にキラキラ光る海。文句なしに美しい風景だ。
海がおわると田んぼ道が続く。
そして、会津へ近づくにつれ山道になる。

今、こうして思い出すだけでも、さびれた温泉街や大きなダムが鮮明に浮かんでくる。
実家に近づくと高揚感が高まるのはなぜだろう。
慣れ親しんだ風景だからだろうか?

両親は再婚同士の複雑な家庭。4人姉妹の長女・次女の父親が違った

うちはいわゆる「複雑な家庭環境」であったが、家族は嫌いじゃない。
末っ子で甘やかされて育ったし、わたしは母のことが大好きだからだ。
これってすごく幸せなことだ。

父が投げた急須が窓を突き破る日もあったし、姉たちに守られながら布団に隠れて、母が暴力をうけるのを見て見ぬふりする日もあった。

両親は再婚同士で、4人姉妹のうち長女・次女の父親が違うことは高校生になって知った。
そのせいで父から暴力を受けた次女が家出をするときは、泣きながら駅まで追いかけたこともあった。
わたしが保育園児のころだ。

父から家族サービスと呼ばれるものをしてもらったこともあったが、あれはたぶん自己満だったし、なにより子どもたちへの接し方が分からなかったんだと思う。

三女が亡くなって父は変わった。その矢先、父は事故で生涯を終えた

そんな父が単身赴任先へ戻ったあと、我が家は解放感で満たされていた。
けれど、わたしが高2の夏に三女が22歳で亡くなってから、父はまるっきり変わった。

姉妹で唯一わたしを大学に出してくれたし、成人式の振袖をレンタルではなく購入してくれて、大学生なんかの私に軽自動車まで買ってくれた。

全部全部、三女にしてやれなかったことをしたかったんだろう。
なにかを取り返すかのように、父は家族サービスをしはじめた。
単身赴任もやめるといい、実家に帰ってくる頻度も増えた。

少しずつしょうもない会話が増えて、家族らしくなってきたことを実感していた矢先、父も事故で亡くなり、あのとき買ってくれた振袖姿を見ずに生涯を終えた。

なんにもなくて恥ずかしかったけれど、今はこのふるさとが大好きだ

実家へ帰るたびに、数え切れないほどの悲しい出来事を思い出す。
それでもこの町は変わらずにあって、ひぐらしが夏のおわりを惜しむように鳴いていて、天の川が掴めそうなくらい星がきれいで、冬にはいくつも流れ星が見える。

春になれば野良猫たちが赤ちゃんを産んで、また命が紡がれていく。
ご近所さんは今日も、畑で採れた野菜をゆずってくれる。
そしてなにより、母が笑顔で私を迎えてくれる。
悲しい出来事たちに目をそらさず向き合ってきた、強い母の笑顔だ。

なんにもない田舎町が恥ずかしくて嫌気がさしたこともあった。
けれど実家を出てわかったのは、わたしの住んでいた町はこんなにもあたたかいということだ。
未来に残していきたい自然はもちろん、やさしさや、不器用な愛、思いやりがこんなにもあふれている。

今は、胸を張ってこのふるさとが大好きだと言える。