杞憂というのは、空が落ちてくるのではないか、という昔の人の心配から成った言葉らしい。
しかし今でも空はそこにあり、だから大抵の杞憂は気にしすぎで済むことが多いか、それか些細なことがきっかけで乗り越えられるのかもしれない。わたしは後者のケースだった。
迷わず答えた心理テスト。備えも過ぎれば怯えとなることもある
昔受けた心理テストで、頭の中がアイデアで一杯かどうかと問われ、わたしは迷わずイエスと答えた。アイデアと言っても間違いでもないのだが、本当は多岐にわたる杞憂への対策が多いというのが本音だった。
例1、もし持病が寛解する前に担当の医者が亡くなったら。
単純に担当は他の医者になるし、亡くなればそれまでだ。当然と言えばそれで終いで解決策もある、大きいけれど大したことのない杞憂だ。
例2。出先で時間が潰せなくなることを心配して、鞄の中にフル充電のタブレット、文字の多い本が数冊、それでも飽きたら。
なにがそんなに困るのか我ながら謎だし、しかも大抵はどれも触れずにスマホをいじって終わる。とても些細だけれど、わりと遭遇するタイプの杞憂だ。
「杞憂癖」をずっと昔から抱えていたことに、最近気づいてしまった
実はこの癖(杞憂癖?)、ずっと昔から抱えていたのに自覚したのはとても最近のことだ。
先々月に古本屋へ行ったときのこと。緊張しいなわたしは久々に入った店内でなぜか焦ってしまい、本屋特有の甘い香りやしんとして涼やかな空気、一面に並ぶ背表紙の勢いに圧倒されて、大急ぎで目当ての英検のテキストを手に取った。
そして会計の終わった袋を手にし、車に乗ってひと息ついたところで驚愕した。英検準2級のが4冊、2級のが1冊入っているのだ。
思わず頭を抱えた。確かに買おうとしていたのはこのレベルだ。けれどすでに準2級をクリアしたというのに、だから今回はこれを復習する程度にしてもう1つ上に挑んでみようとしたのに、もし2級が解けなかったらと考えた結果、まったく逆の買い物をしてしまったのだ!
古本屋には気軽に行けないし、レシートの金額は決して小さくないこともあり、わたしはこの経験から自分の「杞憂癖」のひどさをよく痛感した。
最近も、母との何気ない会話で、杞憂のしすぎを感じることがあった
話は飛んでここ最近、1週間前の話である。
よく使うボディソープがある。それは値段のわりに保湿性がよいのだが、なぜか泡立ちがいまいちなのだ。5プッシュくらいしないと最後まで使えず、ちゃんと洗った気がしないのがたまにキズだ。
あるとき、同じボディソープを買った母に言ってみた。
「これ、泡立ち悪いよね。5回くらい出すんだけどいまいちでさ」
すると母は驚いたように、
「えっ、そんなに使ってるの。保湿がいいから2回くらいでいいんだよ」
と言った。
2回?そんなものでいいの?疑問に思って話を進めていくと、どうやら体を洗うときは背中から始めると泡切れがはやいらしかった。わたしは背中から、けれど母は体の前から洗うそうだ。
試しにそうしてみると、泡がずっと残る。しかも体を流したあとがほどよいさらさら感なのだ。わたしはこれまで杞憂のしすぎだったこと、意外と対策はいらないのだということにようやく気が付いた。
「過ぎたるは及ばざるが如し」とは、きっとこの状況を指すんだろう
代わりがヤブ医者になる。暇を持て余して面倒な考えごとに浸る。英検2級が難しすぎて心が折れる。だけどこれらは「かもしれない」で終わることだ。実際どうなるかはわからない。
それにボディソープを減らしてからというもの、目に見えるほど肌の調子がよくなった。過ぎたるは及ばざるが如し、とはよく言ったものだ。意外と杞憂というのは取り越し苦労で終わるし、試しにそういうことをとっぱらってみるとよりよい結果になるらしい。
わたしはこれだけ時が経っても落ちてこない空と、潤いを落としすぎなくなった肌を眺めてそう思った。