服は息をしている。
私が初めてちゃんと作った草葉柄のワンピースは、私に着られるとなんだかはしゃいでいるように感じた。
どう見られるかばかりが気になっていた頃、山賊のように服を買っていた
そのときの私は、ちょっとでも気に入れば服を山賊のように買い、しかも買った途端に興味を失いフリマアプリで売りさばくという、不毛な日々を過ごしていた。
流行に乗っていなきゃ気が済まないという質ではないのだが、人にどう見られて思われているのかが気になって気になってしょうがないのだ。
かっこ良いと思われたい。あわよくばお洒落、センスが良いと思われていたい。ようは見栄っ張りなのである。
そのくせ、ああいうインスタを賑わせるお洒落peopleとは人間の出来が違うのだ、自分には無理、と思い、たくさんの服を手放す。
自意識がエベレスト並みに高いくせに自己評価がマリアナ海溝のように沈んでいるのだ。
服が好きなのではなくて、それを着てSNSにあげてべたべたと貼っ付けられるハート型のお洒落証明書が好きなのではないか。
承認欲求の化け物だった。
第一回自分仕分け会議の結果、クローゼットの中を仕分けることに…
そんな時に大学の春休みになった。コロナ禍の春休みはどこにも行けず、何も出来ず。
いつも行く百貨店や商業施設は軒並み休業だった。
この間なにもかもを適当に過ごしていたので、何が大切で何が要らなくて、そこら辺のふわふわしているものに名前を付けて整理したいので、自分に目を通すことにした。
自分をいくつかのトピックに分け、それを必要、不必要の二者択一をおこなった。
結論から言うと、第1回自分仕分け会議において、服またはファッションは最終的に必要なものとなり、次に仕分け委員会は現実のクローゼットの中身を仕分けることを宣言した。
そしてフリマアプリでも売れない服の大きなゴミ袋が二つ出来た。
これはいけない。本当の本当に自分が必要な服ってなんだ?自分を大きく見せるためではない、生きるために必要でなおかつ他人と区別できるような服。
そして気付いた。
ないなら作れば良いじゃなーい。
ここにくるまで長かった。
思い立って服を初めて作ることに。生地選びで知った楽しさ
振り返ってみると、自分の中で服を作るということはそれなりに身近なことだった。
小さい頃に母がよく服を作ってくれていたし、祖母は職人だった。
綿のパジャマ、フリンジが付いたスカート、明るい空の色のワンピース、なんでも作ってくれた。
そう、作れば良いんだ。自分が好きな形で、色で、柄で、素材で。
私の縫製技術は家庭科の授業で学んだことが全てである。ようは初心者である。
幸い母が少し助言をくれた。簡単なカットソーや縫うだけのスカートを提案され、そのどちらも合わせたワンピースを作ることにした。
生地屋は家の最寄り駅から数個離れた、近場では一番大きな都市にある。
生地屋に着くなり驚いた。こんな数万もある生地の中から選ぶのか?途方もない、皆目見当もつかない。
とりあえず柄で選ぼう。シンプルなものより画面がうるさいものが好きだ。
同じ柄でも表面がツルツルしているもの、目が荒いもの、ボコボコしているものがあった。
肌に当たるものだから、柔らかそうな生地が良いんだろうか?
こうして初めて服を作るにあたって直面する問題にたじたじになった。
母も祖母も、着る人のこと考えて生地を選んだのだろうな。そう考えると、こういう問題も大切なことだし何より楽しかった。
服は誰かに着られることで完成する。服の気持ちが分かるようになった
買った生地を型紙にあてて計り、チャコペンで印をつけ、全てのパーツを切り出すだけでものすごく疲れたし、ものすごい時間が経っていた。時給が欲しい。
後は縫うだけと思ったら、襟や袖の処理やウエストのゴムを通す作業が細かくて大変だった。もう一度言う、時給が欲しい。
そしてようやく出来たのが、草葉柄のワンピースである。
袖は七分丈で、ウエストをゴムできゅっと絞った。丈は膝上ぐらいでミニより少し長めにした。襟はデコルテが見えるくらい浅めだ。
そして袖を通すと、服が産声をあげた気がした。服は誰かに着られることで完成する。
今まで無下に扱ってきた服たちも声をあげていたのだろうか。
最近になって服の気持ちが分かってきた。袖を通すと嬉しそうにする。急いでいるときクローゼットから雑に引っ張りだした服は、今日は外に出たくないと言ってくる。そういう日はコーディネートを全部変える。
服は息をしている。