連日テレビで報道される新型コロナウイルスの感染者数。繰り返される緊急事態宣言。
不要不急の外出は控えてください。
感染対策をしっかりしてください。

こんな言葉を耳にタコが出来るほど聞いてきた。
いつになったらこのループが終わるんだろう。あぁ、実家に帰りたい……。
こんなにもそう思ったことが今までにあっただろうか。

21歳、大阪に出てきて数ヶ月で妊娠。産むのなら絶縁と両親は言った

私は、21歳の時に岡山から大阪に出てきた。
一人暮らしは快適だった。口うるさい両親も居ないし、自分で好きな時に好きなことができたからだ。

そんな時に、今の夫との間に妊娠が分かった。
まだ大阪に出てきて数ヶ月で妊娠。だから両親は結婚も出産も大反対だった。
それでも私は夫と入籍し、長男を無事に出産した。
両親は、産むのなら絶縁とまで言ってきた。
私も、こんな親は毒親だ!と酷い言葉を放った。

母は、私のたった1人の肉親だ。
小学校に上がる前まで、女手一つで育ててくれた。今の父と再婚して、妹が生まれても母は変わらなかった。

生活態度にとても厳しい母。でも私を最大限の愛で受け入れてくれる母。
母がいたから、今の私がある。
思春期の反抗期には、こんな母親になりたくない、なんて思っていたが、今の私はまるで母とそっくり。

そんな母に対して私はずっとへそを曲げていた。
両親には、一度も自分から連絡はしなかった。
そんな時に、母は私に手紙や仕送りの食材を送ってきてくれた。

あぁ、また変なもの送ってきて…。母から届く仕送りと労いの手紙

全く私の好みじゃない服。
まだ生後数ヶ月だというのにサイズが大きすぎる子供服。
賞味期限が切れたお菓子やパスタソース。

あぁ、また変なもの送ってきて……なんて思いながらも内心嬉しい私がいた。
あれだけ反対してた出産も、今は認めてくれている。
私の事を娘として大切にしてくれているんだと実感した。

それから年子で次男を産んだ。
しかし生後数ヶ月で亡くしてしまった。

悲しくて、絶望的で、食事も喉を通らなかった時。
母は、岡山から駆けつけて気丈にふるまった。私と旦那と長男のために料理を作ってくれた。

数年ぶりの母の料理。正直気は乗らなかったが、不思議と箸が進んだ。
母は岡山に帰るまでずっと私を支えてくれていた。

その後私は、長女と次女を産んだ。
とても喜んでくれた。
相変わらず、いつものように賞味期限ギリギリのレトルト食品やお菓子を送ってくれた。
サイズが大きすぎる子供服と共に、よく頑張ったな、と労いの手紙。

結局、私は母が大好きだ。コロナで会いたいけど会えない…葛藤する毎日

そんな頃に新型コロナウイルス。
コロナが猛威を振るう中で家族の大切さを思い知った。

次女の出産時も、感染症対策の為に誰にも面会はできない。
実家の母も、岡山から産後のサポートに来ようとしてくれていた。
しかし、コロナのことを考えると大阪に来ることは断るしかなかった。

自粛生活で子供と夫以外には会えない。
どこにも行けない、面と向かって話もできない。
孤独だった。精神的に少し辛い時もあった。

そんな中でも、母からのいつもの仕送りと手紙は絶えることなく届く。
相変わらず、どこで買ったかも分からないような子供のお菓子や服が届く。
こんなの着ないよ!って服だってダンボールにパンパン。
この自粛生活を少しだけ和ませてくれる母からの届け物。

結局、私は母が大好きだ。
母を尊敬して、ずっと生きてきた。
コロナがなければ、会って他愛のない会話がしたい。
年甲斐にもなく一緒にお風呂に入って相談しあいたい。

頼むからコロナよ、母や家族にかからないでくれ。
今、コロナにもし家族の誰かが、母が感染したら。
重症化して危篤になってしまったら。

……想像はしたくない。
しかしきっと今なら、死に目に会えないかもしれない。
会いたい、会えない、行きたい、行けない……葛藤している毎日だ。

恥ずかしくて、まだ言えない自分がいる。
でも、会った時には絶対言いたいと思う。

いつも私を想ってくれて、仕送りにたくさん送ってくれてありがとう。
私はお母さんの娘で心から良かったと思っている。