サバサバしたボーイッシュな女の子に憧れるようになったのは、いつからだったのだろう。

女の子にモテたかったとか、性自認が揺らいでいたとかいうわけではないと思う。けれど遅くとも高校生になった頃には、私は意識的に女の子らしさというものを拒むようになっており、「サバサバ系」になろうと意識して振る舞うようになっていた。

「サバサバ系女子」になろうと意識して振る舞うようになっていたけど

髪は美容院代の節約のために伸ばしていたし、制服のスカートも抵抗なく穿いていたけれど、私服のときは「女子っぽい服なんて着れない」と愚痴ってはズボンでばかり過ごしていたし、わざと粗雑な言葉遣いを好んで使ったりしていた。

インスタ映えや校則にひっかからないギリギリラインのメイクを日々追い求め、毎朝早起きして一生懸命ヘアアイロンをかけて学校に来るような多くの女の子たちを、「女子って大変だね」と心の中で冷笑していた。

結果からいえば私は「サバサバ系女子」になることは出来なかった。それどころか、世間でいうところの「自称サバサバ女子」にすらなりきれていなかったかもしれない。原因は多分、私の本来の性格があまりにも残念な感じだったことである。

ボーイッシュでスポーティで誰とでも気さくに話せる、男前といわれるような女の子になりたいと思っていた。しかし本来の私はシャイであがり症、ついでにいえば壊滅的な運動音痴。内向的な性格は変わらないままで、交友関係もそこまで広げることは出来ないまま。

悲しいかなその結果出来上がったのは、地味で内気で中途半端に垢抜けず、そのくせ世間というものを斜めに見る、ちょっと……いや、かなりめんどくさいイタい感じの女子だったのである。

女の子らしいは、弱くかっこ悪いことだという呪縛から逃れられなかった

大学生になった今の私には、少しだけ当時の自分のことが理解出来る。あの頃の私は、女子であるという属性を自分自身で蔑んでいた。

当時はっきりと自覚していたのは「『女子』であることに囚われたくない」という気持ちだったと思う。「JKブランド」や「女子力」という言葉をもてはやし、可愛らしさや幼さを私たち若い女性が備える当然のものとする、そんな世の中や家族の感覚が気持ち悪くて仕方がなかった。

だから、かっこいいサバサバした女子になれば、そんな檻の中から抜け出せると思ったのだ。けれど「女子らしさ」を拒めば拒むほど、それらを当たり前のように喜んで使おうとする、いわゆる「普通の女子」を、私は一括りにして蔑むようになっていた。

女子であるということは、いつも集団で行動し、周りに合わせてばかりで、自分で決断が出来ないということ。恋バナとファッションとスイーツにしか興味がないということ。嫉妬深いということ。理性ではなく感情で物事を考えがちだということ。自分一人の力で生きられないということ。

もちろんそうした言説がステレオタイプに過ぎないことも、男女差なんていう集団ごとの傾向は個人差に比べれば遥かに小さいものだということもわかってはいた。「サバサバ系」になりたかったのも、元々はそれらを否定したいがためであるはずだった。けれど結局あの頃の私は、それらを真っ向から否定出来るほど強くはなれなかったのだ。

女子らしいということは弱さだ、かっこ悪いことだという呪縛から逃れることができなかった。だから私は、自分には女子らしさなんてこれっぽちもないと示そうとすることで、そうしたイメージを否定したかったのかもしれない。なけなしのプライドを守りたかったのかもしれない。

だからといって彼女たちを冷笑するのがお門違いだということには、当時の私は全く気づけなかったのだけれど。

自分が「女子」という属性を蔑む必要なんてないと知って

「女子らしさ」への負のイメージという呪いをどうにか自覚することが出来たのは、大学生になり、ぼんやりと興味があったフェミニズムについて学びはじめてみてからのことだ。

今になっても、呪いを完全に解くことが出来たとは思わない。サバサバした女子になるというただでさえふわっとした目標を諦めて以来、それに代わるような自分「らしさ」も未だに見つからないままだ。

けれど、今の私は自分がお洒落をすることを肯定できるようになった。それは多分、自分が今まで「女子」という属性を蔑んでいたこと、そしてそんな必要はなかったことを知って、改めて自分が魅力的な友人たちに恵まれていることに気づけたからだ。

メイクも可愛い系のファッションも必要とまでは思わないけれど、時には自分に自信を持つための武器になりうるのだと今ならわかる。

かっこよく生きたいという理想は今も変わらない。「若い女性」「JK」という属性に何の疑問もなく一括りにブランド価値をつけてステレオタイプを押し付ける、そんな世の中への異議も、私は変わることなく叫び続けたい。

女という属性とどうやって付き合い、自分のアイデンティティに取り入れていけばいいのかは今の私にはまだわからないし、きっとこれからも悩み続けるのだろう。

けれど自分が自分のために選び取った「らしさ」ならそれは何だって、かっこよく生きるための「自分らしさ」になりうるのだと思う。今の私はそう信じたいのだ。