エッセイを書いたあとで、私の中に残ったもの。それは一体何なのだろうか。
きっと、究極の自己満足と承認欲求だと思う。自分という他の誰でもない存在を、認めてほしくてしようがないという気持ちをそのままぶつけ、言葉にできる手段を知ったその時から、なぜだか夢中になってしまった。

エッセイの投稿は、「認められる」純粋な気持ちを思いださせてくれる

コロナもあって、生活に刺激がなくなった。そんな日常の中で、少しでも今、自分がここにいるんだと、誰かにアピールしたくてしようがないのだ。
外に出られないし、人にも会えない。ならば、今の自分に出来るのは、一体何なのだろう。何度考えたか分からない。そんな時に、エッセイの投稿は、自分を助けてくれたような気がする。

エッセイの採用の通知が来ると、ここ最近では味わったことのないような、心の底からの喜びと、自分が認められたのかもしれないという、子供の頃、親に褒められた喜びと同じような、純粋な気持ちを思い出した。

自分だけが、こんなかわいそうな境遇にいる、とつい思いがちだが、そんな独りよがりの気持ちをストレートにぶつけることができるエッセイは、今の自分にとって、エッセンシャルな存在になっているような気もする。

そして、別に有名になったわけでも全くないけれど、ペンネームまで付けられて自分の書いたものがホームページ上に掲載されると、少しだけ、自惚れてしまうような気持ちも味わった。

書くことで、これまで感じていた気持ちが少しずつ整理されていく

それはかつて、マラソン大会で脚光を浴びていた自分の姿に、どこか重なっているような気がした。結局、私は人と違う、少しだけ、すごい人間なんだ、と自分で思いたいだけなんだろうな、と大人になれない自分に少し嫌気もさしている。

今の仕事を辞めたいとは思わないけれど、仕事の中とは違う自分をエッセイを書くことで見つけることが出来たような気がする。きっと、こうやって自分の思いを言葉にすることは誰にでも出来ることではないと思う。そうして、少しだけ自分の中で優越感に浸ることが出来るのもまた嬉しくて仕方ない。

職場で自分がこうしてエッセイを投稿していることは誰も知らない。だが、それもまた何だがワクワクしている。「どういう本を読むんですか」とかいう会話になると、内心では「私は読むだけではなく、書くことも出来るけど」とつぶやいては、自己満足している。

常に人よりも少しでも優れていたい、と思ってきた今まで、正直辛いことも多かったが、後悔はしていない、とエッセイを書くことで、気持ちを整理することも出来た。

現実から逃げたいと思ってしまう中で、書くことは私を助けてくれる

人と同じことをしていても、同じような人にしかなれない。ならば、人よりも頑張ったり、人と違うことをしなければならない、と、自分に言い聞かせては、生きてきた。
しかし、そういう生き方は、常に孤独と隣り合わせだ。大人数の中に紛れていれば、もっと楽に生きることも出来たのかもしれない。しかし、その「楽」を選ばなかった生き方を色々なエッセイを書く中で、冷静に振り返ることが出来ている。

今、私は少しだけ、「普通」の生き方をしようとしている。それが、自分の「個」を消しているような気もして、自分が自分でなくなっていくのと同時に、普通の世界に溶け込んでいっているという、何とも言えない状態になりつつある。

どう生きていくことが正解で、そうでなかったら不正解、とか、単純に答えがあるものではない。今、コロナの中で、生きているが、間違いなく今までの自分の生きてきた道のりの中で一番苦しい。正直、この現実から逃げたいとだって思ってしまう。

けれど、逃げ道がどこにあるのかも分からない。何とか、踏みとどまっているのは、きっとこうして、文章を書くというツールが私をほんの少しだけ助けてくれているからだろう。
迷いながらも、苦しみの中を生きていかないといけない。