気まぐれにラインを寄越す男友達。唐突に始まった相談を聞いていた
夜。さあ眠ろうと電気を消したタイミングで、スマホのロック画面が光る。
浮かんでいたのは、ラインメッセージの着信を知らせるポップアップだ。送り主は、東京に住む男友達。名を仮に康介とする。
康介は、時折こうやって気まぐれにラインを送って寄越す。大学生のときに知り合ってから、もう十年来の付き合いになるから、もう夜分遅くにどうだとかいう遠慮はない。
前回は「部下ができた、新卒の女の子や、何話せばええかわからん」と初々しくも途方に暮れた相談を唐突に始めて寄越した。
さて今回も初めての部下を扱いあぐねての泣きごとか、とメッセージを開いてみると、
「姉貴、話聞いてくれ」
と、あった。
深刻である。康介は私より生まれ月が早いくせに、弱りきったときには決まって私のことを「姉貴」と呼ぶ。心の姉貴なんだそうだ。
上司にセクハラをされたと話す彼。言葉で慰めるには上っ面過ぎる
私は部屋の明かりをつけ、神妙に、発信ボタンを押した。
「どしたん」
「あー、……うん、上司にセクハラされてんや」
「セクハラされた」
思わずオウム返しに尋ね返す。康介がセクハラした、のではなく、された側。
「せや。不倫の誘いを受けて」
「不倫の」
またぞろ繰り返す私。康介は呆れたように力なく笑って、ツッコミを入れた。
「繰り返すのやめえ。なんやさっきから」
「だって不倫て。しかも職場で? 正気か?」
「おれに言うなや。ほんでな、大人の付き合いや、言われてんな」
「断ったんやろ?」
「そりゃそうや。どうにかうまいこと断りはしたけど、なんか、そんなんが大人の付き合いや、言われたんがな、しんどなってな……。姉貴、どう思う?」
要するに康介は、不倫の誘いを受けたことに参っていたというよりは、「そんなふうに誘ってもいい人間」として扱われたことに対して鬱憤を溜めていたのだった。
どう思うもクソも、ぞんざいに扱われて腹が立つのは当然のことだ。ただ、言葉でそれを慰めるのは上っ面に過ぎる。
何かいい方法はないものかと考え、私は視線をめぐらせ――ベランダの室外機の上に置きっぱなしの灰皿に目が止まった。
言葉よりも役に立つのは煙草。「一服せん?」とベランダに出た
よし。
ベランダに出ながら、誘いかける。
「康介、とりあえず一服せん?」
「お、……うん。吸うか」
果たして、康介は乗ってきた。
彼と私は煙草のみである。就職活動に忙しなかった日や、卒論に行き詰まったとき、私たちは灰皿を囲んだものだ。だから、疲れたとき、イライラしたとき、寂しいとき、そして、喫煙者同士の連帯感をもって、それらの気持ちを共有したいときに、ともすれば言葉よりも煙草のほうが役に立つと、知っている。
通話をハンズフリーでできるようにセットして、私は煙草に火をつけた。電話口からは、カチン、とジッポの蓋を跳ね開ける音がする。
ひとくち、ふたくち。ニコチンが舌先を痺れさせる。煙を吐き出す。風が吹いて、白い靄を月夜に溶かしてゆく。
今日は満月だ。まんまるの月が南の空に浮かんでいる。
「いっちょ前に煙草は吸えても」
しばらくの沈黙ののち、康介がぽつりとつぶやいた。
「まだまだ大人にはなられへんわ」
「ええんちゃう」
私もぽつりと返す。
「お互い、精神年齢は未成年のままで」
大人なら、大人だから、ぞんざいに扱っても傷つかないと思っている人間はいる。まったく、鈍いやつらだ。不倫の誘いに眉をひそめるくらい潔癖で、他人から粗雑に扱われたことでこんなに弱る大の男もいるというのに。私は少なくとも、鈍感な大人になるくらいなら、繊細な子どものままでいたい。
私達は私達が互いに望むまま、繊細な子どもで居続けられますように
私がそう思ったことを察したのかどうかは知らないが、康介はジッポを再び鳴らしたあと、「せやなぁ」と相槌を打った。
「児島はそのまま変わらんといてくれな。おれ、こういうこと話せる友達、少ないねん」
姉貴呼びが引っ込んだということは、ちょっと元気になったというサインだ。もう大丈夫そうかな、と電話を切り上げようとしたところで、やおらに康介の声色が変わった。
「そういや、児島。そっち晴れてる?」
「ん? 晴れてるけど」
「めっちゃ月、大きいで」
泣いたカラスがなんとやら。彼はすっかりあっけらかんとしている。
「そやな」
康介こそ、そのままでいてほしい。私は煙草をふかしながら、満月を見上げ、祈った。年齢を重ねても、大人になれよと誰かに言われても――私達は私達が互いに望むまま、繊細な子どもで居続けられますように。
吐き出した煙が、夜に溶けていく。