ずっと、漠然と「物書き」になりたいと思って、思うだけだった。
文壇を揺るがすようなすごい物語も思い付かないし……と、物書きになりたいくせに何も書かず、手癖になってしまっているInstagramのタイムラインを意味もなく、しかし婚姻届やドレスや指輪や花束なんかの写真が出てこないかをどこかで警戒しつつ、スクロールをし続けていた。
目に留まった賞金5万円。採用された文章に届いた「分かる」の感想
そんな時に目に留まった、「結婚、どう思う?」のエッセイ募集の広告……の、「大賞には賞金5万円」の文言。これまた、無意識にInstagramを開き、警戒しつつも意味もなくスクロールすることが癖になっているのと同じようにお年頃的に、気が付けばしょっちゅう考えてはいる「結婚」についてを綴って、もしも選ばれれば5万円!?……と、すみません、最初の第一歩はかがみすと賞の賞金につられたのでした。
それでも、採用していただいたエッセイ「私が望んでしまう『結婚』は『したい』よりも『挙げたい』かもしれない」(https://mirror.asahi.com/article/14178887)にも綴っていたように薄々気がつき始めていた、「結婚“式”」にだけ、「花嫁姿」にだけ憧れている自分がいる事ついて振り返る、見つめ直す良い機会になると思い、書いてみたのだった。
そうして書き上げたエッセイが、運良く採用をいただき、実際にメディアに掲載された。読んでくれた知人や、そのまた知人などから届いた感想の殆んどが、「分かる…!」という一言がまず最初に出てくる共感だったのが面白かった。
自分の他にも、とにかく花嫁姿に憧れている人がいる、結婚をとりあえずしてみたいと思っている人がいる。ああ、良かった。私だけじゃない、私が異常に「結婚“式”願望」に取り憑かれていたのではなかったんだな、と正直、安堵したのであった。「結婚式が挙げたいから、結婚がしたい。花嫁になりたい」という気持ちを抱いている乙女は、わりといるもんなのだと。
改めて気付けた本音。結婚じゃなくて「結婚式」に興味があるのかも
更に、執筆した当の本人の私自身も、書き上げた当初から現在に至るまでに少しばかりの気持ちの変化を確認する事が出来た。エッセイ執筆中と掲載当初はまだ気が付いていなかったもう1つの本音というものに気が付いた。
件のエッセイを自ら要約すると、「今現在、私は結婚がしたくてたまらない。しかしそれは結婚“式”を挙げたくてたまらないだけかもしれない。この考えがいつか“式”はなくともしたいと思える結婚を、これからを共に生きていく伴侶を見つけた“婚姻”を、望めるようになりたい」と締め括られている。
このように、今までそれとなく目を逸らしていた、認めたくなかった「結婚式がしたいだけ」という本音認め、洗いざらい吐露してしまうと途端に「あ、私、本当にイベントとしての結婚“式”がしたかっただけだったんだわ!」と今度はみるみる「結婚“式”願望」どころか、「結婚願望そのもの」もなくなって行くのに気が付いた。
結婚がしたくなくなっただとか、諦めたわけではない。つい最近だって、Instagramをスクロールしている内に例によって婚姻届やドレス、指輪、花束なんかが飛び込んで来ようものなら目を見張り、飛び起き、いいね!は押しつつ「……この子もかぁ~。またかぁ~。先を越された~。いいな~。」を繰り返しているから羨ましい事であるのは認める。
しかし、羨ましいと思っているのは、今でこそ認めて開き直っている「結婚“式”願望・花嫁願望」にしろ、「独り身は寂しいから結婚したい!パートナー願望」にしろ、どちらの願望から起こるものではないのだ。
私がしたかった結婚とは。きっとあの恋に敗れたから、夢見てしまう
私がしたかった「結婚」とは、ずっと夢に見ていた「とある人」との結婚しかしたくなかったということに気が付いたのだ。その人とは、もう終わってしまった恋の相手で、学生の頃からずっと片想いをしていて、長い年月が過ぎ、再会の機会を経てから、恋人になることが出来た相手だったから。
私のこの諦めの悪かった恋は共通の知人に多く知れていた。その人に恋をしていた事はアイデンティティの一部ですらあったから。
だから、敗れ続けた恋が実った結末が「結婚」だったら、なんてドラマチックだろう!と思った事があったのを気が付かないふりをしていた。ドラマのような、少女漫画のような、ストーリーの「結婚」を夢見ていた。それこそ、本当に、Instagramの「ご報告」として、載せられる写真の撮れる結婚を、結婚式をいつか、でも必ず挙げたい、成し遂げたい、と思っていた。
例のエッセイ中にも自ら書いた言葉の「結婚はゴールではなく、スタート」だという言葉を知りつつも、どこか、ずっと射止めたかったその人をなんとか新郎にすることが人生の夢であり、ゴールになりつつあった。それこそ、その後のその人との人生、生活を築いていく事を具体的に思い描けないのに、「結婚」そして「結婚式を挙げる事」だけを「夢見て」いた。
エッセイを書いて気付いた。誰かに見せるために結婚したい訳じゃない
エッセイを書いて、冷静に己の考えや心情と向き合った事で、私は夢からさめた。結婚という人生の節目や、実際の結婚式だって人生のアルバムの1ページには素晴らしいものであり、美しい。けれど、誰かに見せたい、知らせたいためだけの目的にしてはいけないのだと、しみじみと思うことが出来た。Instagramを飾るために、イベントとしての結婚を望んではいけないのだ。
勿論、一応ロマンチックな心も持ち合わせている年頃の乙女であるので、人生で一度くらいは婚姻届も書いてみたいし、ドレスを纏った自分を見たいし、見てもらいたい。指輪を貰えたら嬉しいし、花束だって贈られたい。
けれど、それらはおまけであってただの「結婚」という制度に関してはあってもなくても良いものたちなのだ。あ、婚姻届はなくてはダメだけれど。
それでも、婚姻届だって相手と戸籍を共にする必要があるから提出する届なのだから、「結婚」という言葉がとにかく、「これからを一緒に生きていく事を約束する事」を意味するのだとしたら婚姻届も、ドレスも、指輪も、花束も、結婚式もなくても果たせる。
改めて、今回、再び「結婚」というものをしたいかを問われれば、いつかはしたい。けれど「婚姻」という事であればInstagramに載せなくても、「この人さえいてくれれば生きていけるわ」と思える人がいて、更に戸籍を共にするメリットを最大限に感じるのであれば婚姻届を書いて、提出したい。それと、ドレスや指輪なんかはおまけでいいよ、と思い直すのであった。