17時13分、今日も何気ない1日が終わった。
終わったといっても、退社後の電車に乗るタイミングでそう思う。一つにきゅっと束ねた髪をほどいて、到着の電車の風でなびかせるその瞬間。
日比谷線の車内に乗り込むと、ちょうど端の席が空いていた。
背負っていたリュックを前に抱えて座る。ふと前の席に座っていたきれい系のOL女性が、スマホとにらめっこをしている。しきりに前髪を整えて、長いまつ毛の流れを気にする。おそらくこれからどこか食事にでも行くのだろうか。
コロナ前は、一日が終わったなと感じるのは、帰宅後のシャワーを水圧強めで浴びる瞬間だったのに。メイクを気にしたり、ほんの少し緊張が混ざる待ち合わせをしたのはいつ頃だっただろうか。
あっ、あの夜か。一瞬体温が上がりマスクの中で軽く下唇を噛み締めた。
2年前の冬のこと、1年に数回会う関係を持つ元彼と私は既婚同士だ
それは2年前の冬。
私は仕事終わりに大学サークルの同期と会う約束をしていた。同期と呼ぶのは何とも外行きな呼び方だろうか。
確信をつくと元彼であり、ここ3~4年そういった関係を持つ仲だった。お互いに既に結婚していたが、1年に数回会っていた。
私は仕事を終えてまずはパウダールームへ向かう。結んでいた髪を開放してから、真っ赤なシャネルのルージュを指でなぞり、唇に軽く馴染ませる。
うん。我ながら女っぽいなと鏡の前でフっと微笑んでしまった。
ここからが今日の始まりだ。
彼と合流して予約していたお鍋屋さんで、「最近は仕事どうなの?」と最初はたわいもない会話。
だんだんとお酒も進み、ほんのり顔がポッと赤くなってきて心地よい。
彼は「相変わらずお酒弱いな。耳まで真っ赤だよ」とクスッと笑う。
私は「そんな赤い?今日も3杯でギブアップ。ほんとコスパ良い酔い方でしょ」。
「大学時代はピッチャーで一気飲みとかしてた奴がよく言うよ。今頃ぶりっこしても遅いって」
「ハハッ。それはお互いの黒歴史でしょ。ちょっと赤くなるくらいは女の子でいさせてよ」
学生時代と今の時空が重なった感覚があった。彼といると冗談が言える私が戻ってくる。
「私を選んでくれるなら、奪ってほしい」と望んでしまった時間
その瞬間、彼の右手が伸びてきて私の左頬を覆った。
「耳もほっぺも熱いよ。可愛い。おれずっとお前の事好きなのかな」
一気に今に戻される。思わず目尻がとろんと下がる。
何言ってるのよなんて、笑い飛ばせれば良かった。出来なかった。
もし彼が本気で好きで私を選んでくれるなら、私を奪ってほしいとそうどこかで望んでいた。
あっという間に3時間経過して、一度お店を出ることになった。
少し散歩しながら自然に肩が触れて、手を繋ぐ。この手の温かさで、また昔と今と時間が繋がる感覚がした。ドキッとする胸の高鳴りだけではなく、自分の居場所はここなんだという温かい安心感もある。
私は「手繋いでるの知り合いに見られたらやばいよね」。
「……」
「スルー?まあ友達で酔ってふざけてたってことにしとこう」
反応がない彼を横目で一瞬確認すると、ただ真っ直ぐ前を向いて足を運ぶだけ。
そして2人の手は離れて、彼が唐突に口を開いた。
「子供が出来た。あと2ヶ月後に産まれるんだ。もう今みたいに会えなくなる。今日で2人で会うのは最後にしよう」
「そうなんだ。おめでとう。赤ちゃん楽しみだね」
ありがとう。もう会えない寂しさを抱えて、ただ駅に向かって歩いた
私は精一杯の上っ面の言葉を絞り出した。
いつかこの日が来てしまうとは覚悟してたものの、会えなくなると切り出されるとは想像していなかった。
彼にとって私は家族とは別のもう一つの居場所だと思っていた。
友達、親友、恋人、どこにもカテゴライズされない特別で唯一無二の存在だと信じていた。
もう会えないと告げられて、寂しさや魂がすっと抜けていく感覚があった。
今まで私たちは何を得て、どこを目指して過ごして来たのだろう。
そんなら無駄な回想をしたりして、ただ駅に向かって歩いた。
ありがとう。さようなら。
そして最後に残った感情はありがとうであった。
今まで笑って泣いて信頼してくれてありがとう。
1番側にいる家族を選ぶ人でいてくれてありがとう。
いつ大切な人と最後の別れになるかは分からないし、時に突然に目の前に訪れるものなんだ。
あの夜があってから、何事もへっちゃらと思える自分がいる。
強く進もう。