結婚。したい、ものではある。
したい。心の底から。したい、したい、結婚はどうって…。
左手の薬指にリングをはめて、苗字が変わって、白いウェディングドレスを着て…黒留袖の母にベールをおろしてもらって、チャペルのバージンロードを歩く。チャペルには懐かしい顔ぶれがおめかしをして…、と、〈結婚〉の2文字を目にすると始まるこの妄想が、私が「したい」って思っている〈結婚〉である。

したいのは〈結婚〉じゃなくてイベントとしての「結婚式」かもしれない

だけど、これって〈婚姻〉という戸籍や人生に関わることではなくて、〈結婚式〉がしたいだけなのでは?と思うようになってしまった。
それは勿論、「生涯一緒に居ましょう」と約束を交わした相手との大事なお祝いはしたいし、記念になるし、今でも関わりのある方や、お世話になった方にもお披露目する意味でも結婚式は挙げると良いと思う。

けれど、私にとっての〈「したい」結婚〉はそこがピークのようだ。実際、私が〈結婚〉に憧れるときは決まって先述の妄想が浮かんでしまっていて、婚姻を経て戸籍が変わって、誰かの伴侶として生きていく、日々の生活を送っていく、ということまで思い描くことが出来ない。

一度もまだ結婚したことのない私は、〈イベント〉としての〈結婚〉を求めてしまっている。薬指にはめるリングも、白いウェディングドレスも、母におろしてもらうベールも、チャペルのバージンロードも。〈結婚式〉という〈イベント〉の中で〈花嫁〉のアイテムであることが否めない。どれも光景としては美しいものだから憧れるのも分かる。

けれど、今後の生活には必要がなく、その日、〈イベント〉開催中のみに求められるものである。さらに、〈イベント〉として求めているのだなと感ぜざるを得ないポイントが、めかした懐かしい顔ぶれがチャペルに居ること、だ。
彼らに見守られて、彼らに〈見てもらって〉、この〈イベント〉は成り立つと思っているのも事実だ。誰かに、見てもらいたい〈イベント〉。SNSにあげて、いいね!をもらいたい〈イベント〉。
それを、私は「したい」と求めてしまっている。

〈結婚式〉の後、他人と「生きていくこと」を考えるとネガティブになる

ありふれた、誰が言い出したか分からない、けれど未婚の私でも漠然とそうなんだろうと思える言葉に「結婚はゴールじゃなくてスタート」というものがある。その言葉の通りだろう、ワタシ。と妄想に犯されていない冷静な脳味噌で考え、私はワタシに説く。
そうなのだ、ワタシよ。
仮にキミが妄想する、〈「したい」結婚(式)〉が出来たとして、その後は?〈イベント〉が無事に終了したあとの〈人生〉は?より具体的に〈生活〉は?

得意の、〈「したい」新婚生活〉の妄想はいくらでも出来るのだが、現実的な、他人だった人間と戸籍を共にして、家屋を共にして、「生きていく」こと、〈生活〉を実際に営むことを考え出すと上手くやっていける自信もないし、やり直しがきかないのだとしたら、失敗したくないし…と途端にネガティブな考えに傾いてしまう。まるで、一世一代の大事な〈イベント〉を失敗させるまい、としているかのような心持ちである。
けれど、そんな面倒くさい心持ちをしていても、自分が生涯一度も〈結婚〉というものが出来ないままではそれはそれで嫌なのだ。その〈結婚〉が、誰かと夫婦になるということの〈婚姻〉であっても、例のイベントとしての〈結婚式〉であっても。どちらでも。独りは寂しい。寂しく居たくない。誰かに構われたい。見てもらいたい。祝われて、いいね!をたくさんもらいたい。でもそれは見栄の為では?…そうかもしれない。でも、でも…「したい」ものなのは変わらない。今は。

「一緒に生きていこうよ!」と思える〈婚姻〉を望めるようになりたい

改めて「結婚、どう思う?」の問いにはとにかく「したい、心の底から。」と答え、その後に我ながら呆れつつ「独りでは居たくないし、結婚〈式〉がしたいから、花嫁になりたいから、花嫁姿を見てもらいたいから、結婚がしたい。」と思い直す。
このままでは〈「したい」結婚〉というより、〈「挙げたい」結婚式〉になってしまう。
いつか、この気持ちとは正反対に「式なんていいから、とにかく一緒に生きていこうよ!」と思える〈婚姻〉を望めるようになりたい。
このご時世、コロナ禍によって〈「挙げられなかった」結婚式〉を胸に仕舞ったまま、戸籍が変わり、誰かの伴侶として、生活を、〈人生〉を進め始めた夫婦はたくさんいるだろう。それでもきちんと〈結婚〉が出来ているのだから。一世一代の〈イベント〉がなかったとしても。
〈「挙げたい」結婚式〉から、式はなくとも〈「したい」結婚〉を求めたい。