あの夜、確かに私は幸せになれると信じて、その手を握り返したはずだった。

よく笑う、陽だまりのような人は、魅力的で、どんどん惹かれた

社会人一年目、仕事内容を覚えるのに手一杯だった私に、隣の席のあの人はとても優しく接してくれた。困っている時にすぐ気付き、声をかけてくれた。
七歳も上のその人は、おしゃべりで、よく笑う、陽だまりのような人だった。

大学を卒業し、大学院に進んだ彼氏とは生活リズムが合わずすぐに別れた私にとって、その人は魅力的すぎた。どんどん惹かれていった。
一方で、その人からの好意も少し感じ取っていた。私のことを気にかけてくれ、一緒に買い物に出かけることもあった。

そうして十月、肌寒くなってくる季節。私は初めてその人と二人で飲みに行った。
きっかけは私。上半期のお疲れ様会を二人でしたいと持ちかけ、了承を得た。もちろん、何も期待せずに誘ったわけではない。とは言え、少しでも距離が縮まれば、その程度だった。

よくしゃべり、よく笑うその人は、お酒が入るとさらに楽しそうだった。それを見ている私も本当に楽しかった。二軒はしごし、終電間際の時間。そんな素振りはなかったのに、急に引き止められた。

少しの期待をしていた私にとって、幸せだった「大事にする」の言葉

「この後、ホテルに行きませんか」
それまで私に対して敬語ではなかったのに、急に敬語になったその人の声と、少し興奮した表情に鼓動が跳ねた。もちろん悪い気はしなかった。その人に私はもうすでに十分惹かれていたのだから。

「付き合う前にこういう事をするのがあまり良くないのは分かってる。けど、女性としてすごく魅力的だし、ちゃんと大事にしたいと思ってる」
私の手を取り、どうする、と優しく聞いてくれる。少しの期待で綺麗な下着を身に付けていた私にとって、断る事などできなかった。

「はい」
その人の、私より大きい、温かい手を握り返した。
確かにあの夜、少なくとも私は幸せだったはずだ。惹かれていた人に抱かれ、その腕の中で眠り、目覚めると目の前にその人の顔がある。
優しく髪を撫でてくれた。宝物のように扱ってくれた。
その夜だけだった。

女として幸せを感じた。その記憶だけは、ずっと変わらない夜がある

「大事にしたいと思ってる」
あれは何だったのか。
いずれ付き合えることを期待したあの夜。温もりに包まれ幸せだった。たしかに私はその人との未来を信じて身体を委ねたのに。そんな事を考えていたのは私だけだった。

「ちょっと距離をとろう」
「関係をリセットしよう」
「ほかに良い人ができた」
ふざけてる。
あの夜を返せ。
あの夜、たしかに私は幸せだったはずなのに。
私を夢中にさせたあの夜を、なかったことにしたくないのに。

あれから、私は狂ってしまったんだと思う。どうしてもその人が良い、いつまでもしがみついてしまう。次に進めない。いつまでもこの沼に沈み続け、前を向くことなどできずにいる。

それでも、あの夜があったから、私は女として幸せだった。その記憶だけは変わらない。
しかし、その記憶は美しいものなどではなく、どんどん辛い思い出に変わっていく。
幸せになれると信じて握り返した手は、あのときはね返さなければならない手だった。
あの夜があったから、私はもう間違えないと自分に誓った。