どうして、あんなに地元を出て、とにかく東京に行きたかったんだろう。
このエッセイ「8年連れ添った恋人『東京』と別れたら、楽になると思っていたのに」を書いてから、ふと思った。
もっとたくさんのオーディションやレッスンを受け、もっといろいろなことに挑戦したかったから、ということは大前提なのだが、それ以外の理由、あの頃、私が何を感じていたのか、実家を離れて9年が経ち、新型コロナウイルスの影響で帰省するにもしづらく、お墓参りにも全く行けていない状況の中、私が過ごした地元を振り返ってみた。
地元に負の感情を持っているわけではない。私の生まれ育った場所だから
先に言っておくが、私は地元が好きだ。好きに理由はない。あえて言うなら、そこが私の生まれ育った場所だからだ。
私の奥深くにある、なかなか変わることのない、良いところも悪いところも全てこの場所で作られた。
たとえ日本以外の国籍の人の元へ嫁いだとしても、自分が死んだ時の骨は地元に埋めてほしいとさえ思う。
だから、私が地元に対して負の感情を持っているわけではない、ということは理解してほしい。
私が過ごした地元は、最寄り駅もコンビニもスーパーも徒歩圏内、自転車圏内にはなく、小学生の頃の私たちの学年は10人にも満たず、「どこの家の子?」「●●のです」これで身元が分かる、そんな小さな町だった。
家には近所のおじいちゃん、おばあちゃんがよく来ていて、当時、自分の部屋がなかった私は祖母たちの会話を嫌でも聞かなければならなかった。
「●●さんのとこの嫁は、性格が悪い」
私も知っている人だが、性格が悪いと感じたことは1度もない。
「●●さんのとこの孫が、髪を真っ赤に染めて歩いていた」
ここでいう「真っ赤」という言葉の意味は、ただの茶髪だ。
毎日飽きずに他人のこと、そして、孫の代のことまで話のネタにするんだなと思っていた。
違うことをすれば悪目立ちし、スパイばかりの地元から逃げたかった
小学生の頃、私は書道を習っていた。
ある日、書道教室の先生が私の耳元で「(お母さんの)実家に来てるの?」と聞いてきた。
血の気が引くとはこのことを言うんだなと感じた。本当に「サーッ」というような、心臓から全血管の先端まで、血液が一瞬にして動き始めた音が聞こえた。
私の親、第1次離婚危機の時だ。
お盆でもお正月でも何でもない日に、約1週間だけ母と私と妹で母の実家に行ったことがあった。
隣の学区なので車で10分程の距離なのだが。
それを言われた時は、元の家に戻っていたので「もう、あっちに戻りました」と言ったが、筆を走らせながらドキドキというよりも、ドクドクしたことを覚えている。
私は嫌で嫌でしょうがなかった。
1人違うことをしているだけで、とてつもなく悪目立ちしてしまう。
道を歩けばスパイばかりのこの場所から逃げ出したかった。
そう、「東京に行きたい」の言葉の裏は「この場所から逃げたい」だったのである。
今でも思う。
地元から逃げた私にとって、帰る場所はあっても居場所がないんだなと。
9年間逃げ続けた。これからも帰ることはあっても住むことはないと思っている。悲しいけれど。
何度も言うが、地元が好きなのだ。離れても税金を納めたいくらいに
でも、笑われたって、指を差されたって、考え方のギャップが生じていたって、堂々としていればいいのだ。
嶽本野ばらさん原作、中島哲也さんが監督された映画『下妻物語』の竜ヶ崎桃子を見習うべきだった。
周りは地元で服を買っている中、1人、代官山のロリータファッションショップで服を買い、フワフワの服で堂々と田舎を歩いているのだ。
どうやらこの映画が公開された時、私は11歳だったらしい。その頃にこの映画に出会いたかった。
そうしていたら、少しは心が軽くなっていたのかなと思う。
次、いつ帰省できるかもわからないが、その時は髪をピンクにし、「本当の真っ赤」な服を着て、ありったけのお洒落をして実家に帰省し、田んぼしかない道を堂々と歩きたいと思う。
そして、何度も言うが、私は地元が好きなのだ。
以前のエッセイにも書いたが、住む場所を転々とする生活を送っている。
つい最近、住民票を実家に移した。
理由は、長年住んでいた東京でもなく、数ヶ月しか住んでいない場所に税金を納めるということに違和感を覚えたからだ。
だったら、地元に税金を納めたい。今年はしょうがないが、来年からは地元に税金を納めることになる。
それが楽しみでしょうがないということも、そして「スパイ」なんて表現をすることを何度も悩んだことも、覚えておいてほしい。