現代の太宰治になりたかった。
彼の書く、明るく病んだ文章が大好きだった。
私も彼のように、陽気に病んで、人々から「こいつはこういう人間だから」と思って許して愛してもらえるような、そんな人間になりたかった。
究極の愛を求めて、何度も心中未遂を繰り返した太宰に憧れていた
究極の愛を求めて何度も心中未遂を繰り返した太宰のように、私も究極の愛を求めていた。
愛はどちらかが死ぬか、どちらともが死ぬかで完成されると思っていたから、私はいつも私のことを好きだという人に、「なら私と一緒に死ねて?」と心中することを求めていたし、それが実現されない度に絶望の渦に呑み込まれていた。
つねに誰かから愛されていないと、自分の存在意義が見出せなかった。愛されない自分など、死んだ方がマシだと思っていたし、一人で死ぬのは寂しいからやっぱり誰かに一緒に死んでほしかった。
そうやって絶望を繰り返しつつ、「文章を書けない太宰などただのクズだ」とも思っていたから、私は文章を書くことを始めた。そして今、「かがみよかがみ」さんでエッセイを掲載していただけるようにまで成長した。
憧れの太宰ほどではないけれど、「文章を書く」という、自分を肯定できることが一つできて良かったと思っている。
憧れは憧れのままで。私は私、彼にはなれないし、ならなくていい
初めは「何もできないクズでいたくないから」という、ただそれだけの理由でエッセイを書き始めただけだった。
でも今は、書くことこそが私の生き甲斐になっている。
誰からも愛されなくても、書くことが私を生きさせてくれている。
書くことで、そしてそれを読んでいただくことで、私は自分を肯定できて、死を伴うような極端な愛を求めずともいられるようになった。
心中願望のない太宰は太宰ではないかもしれないけれど、私は今の自分が好きである。
拙い文章を書くことしかできないけれど、誰かから愛されることによってしか自分の存在意義を証明できない人間ではなくなれた。
憧れの太宰を通して、私は一つ大人になれたと思う。極端な考えをせずに、折り合いをつけて生きていけるようになったから。
それに、私は憧れの太宰のおかげで生きる意味を見つけられた。
思いの丈を筆記したいから生きていたいし、書くために色々なことがしたいと思えるようになった。ただ日々を空費するだけではなくて、何か書くために行動できるようになった。
太宰は太宰で、私は私だったのだ。彼にはなれないし、ならなくていい。
憧れは憧れのままでよかったのだ。自分もそのひとと同じになる必要はない。憧れのひとの好きなところをリスペクトしながら、自分らしく生きていけばそれでよいのだ。
憧れの人と同じになれたとしても、それは"憧れの人2号"になるだけ
この文章を読んでくれているあなた。
あなたが憧れの人のようになれないと思い悩んでいるとしたら、どうかその悩みは一度どこかに置いておいて考えてほしい。あなたがその人と同じようになったとしても、それではあなたが"憧れの人の2号"になるだけではないか。
あなたはあなたで良いじゃない。
その人にはその人の良いところがあるし、あなたにもあなたの良いところがある。そこに目を向けて、変に自分を否定したり改変しないでほしいと思うのだ。
今の私は「こんな大人にはなりたくないな」と思っていた大人の条件を大体満たしているけれど、それでも自分を肯定しながら生きている。
あなたにも、どうか「憧れ」の重圧に潰されないで生きてほしい。