私は自分だけだという気持ちと、でも一人きりは寂しいという気持ちがひしめき合い、お互いに潰し合う。心の水槽では食物連鎖の嵐だ。
私は他の人とは違う、背鰭が不揃いな魚みたいだと思っていた…
唐突ですが、ずっと生き辛かった。考えていることが他の人と違う、どこかズレているという感覚があった。同級生がハマるドラマには一切ハマらなかったし、芸能人にも興味は湧かなかった。代わりに気になることは、エアコンなんで冷たい空気出てんのとか、先生って泣くことあるのかなとか、そういうこと。
複雑な家で育ったおかげでトラウマも多く、家族や愛について人一倍考えるようになった。兄が失踪し、母親も高1の時に消え、大学入学時に父親も消えた。そんな中、健康な家族で育った学生だらけの大学で生きるのは、孤独で寂しくてやりきれない。
まるで一人だけ背鰭が不揃いな魚みたいで、もがけばもがくほど前に進むというよりは沈んでいく。皆さま立派な背鰭と才能豊かな尾鰭、そして愛されていると自信満々な胸鰭をつけていらっしゃるから、ぐんぐん前へ進んでいく。どの鰭も小さく、不揃いで、醜い私はそんな彼らに追い越されているばかりだった。
神様、どうか同志をください。同じように苦しんでいる人と私も身を寄せ合って、冷たい激流を共に戦っていきたいの。
そう思っていた。思っていたはずなのに…。
「同志」を求めていたはずなのに、いざ見つけたらひどく狼狽した
数ヶ月前『かがみよかがみ』に出会った。そこには、文字通り“同志”が山ほどいた。友達にも読ませたが、どのエッセイも「あんたが書いたの?」と言われるぐらい共感できる。私がいっぱいいたんだ。初めてマイノリティーではなくマジョリティになれたと思った。嬉しかった。間違いなく。でも同時に、悔しかった。
私は、特別なんかじゃなかったのか。
呪いだと思っていたこの小さな鰭は、裏を返せば私を特別たらしめる要因だった。「この痛みや傷は私だけだ」と、当たり前に傷ついた鱗を反射させて、見せびらかしていたのだと気づいて心底恥ずかしい。
同志を求めていたはずなのに、いざ見つけたら私はひどく狼狽して、そこに書かれているエッセイ全てを嫌いになったりした。当たり前だが文章を書けるのは私だけじゃなかったし、葛藤や苦労を抱えているのも私だけじゃなかった。
それに上には上がいる。私の苦しみよりも苦しそうな人がいる。比べるものじゃないはずなのに、どうしても比べてしまう。そして、救うために書かれた文章にバカ正直に傷ついた。
私は私だ。この痛みも苦しみも私だけだ。
けれども、一人ぼっちでこんな苦しみを抱えたくない。
矛盾と葛藤が、ただでさえ酸素の取り込みにくい胸を圧迫していく。
多くの痛みや価値観、葛藤がひしめき合っているけど、同じものはない
私の痛みは、私だけのものだ。
あなたの痛みが、あなただけのものであるように。たくさんの痛みや価値観、葛藤がひしめき合い、どれも似たように見えるけれど、どれ一つ同じものはない。共感して投影することもあるけれど、それは類似しているだけで、同じものじゃない。
同じように見える金魚が、その1匹1匹ユニークな模様を抱えているように、私たちの苦しみは同じじゃない。
完全には分かり合えないということを前提にしながら、私たちはなおも誰かと繋がり共感しようと、鼓舞しようと必死に言葉を綴り合っているのだ。
心という水槽で、ひしめき合う。この特別な鱗も鰭も、前へ進むために身につけたものだ。誰かと比べるためのものじゃない。わかっている。わかっているけど、私心の水槽は、今日も受け入れてほしい私と、受け入れられたくない私が喧嘩しているし、その最中も“私自身”の入れられた水槽はよく似た魚が泳いでいる。
その中で、自分を見つめて泳ぎ切れるだろうか。