わたしの高校時代を記録するフィルムがあるとしたら、写っているのは床や地面ばかりで、さぞかしつまらないだろう。
中学3年生の秋、受験ノイローゼになった。
シャープペンを持つと手が震え、吐き気がし、溢れてくる涙で参考書が読めなかった。
今思えば、親の期待に応え続ける人生にピリオドを打つためのノイローゼだったのかもしれない。しかし、当時は「わたしはとんだ怠け者だ」と自分を責めた。
ところがわたしは、第一志望の高校に合格した。
母は、わたしの手元の紙切れとボードを見比べ、パッと笑顔になり「受かったじゃないの!お寿司!お寿司食べに行こう!」とわたしの背中を叩いて喜んだ。
しかしわたしの目は、顔を覆って泣いている少女に釘付けになっていた。
見覚えがあった。毎日遅くまで自習室で勉強していた子だった。
その子を抱きしめている、母親らしき女性も涙を流していた。
その光景を見て、「わたしは合格してしまったんだ」と思った。
怠け者のわたしが受かって、毎日頑張っていた子が落ちる。
不条理に思えた。
わたしは罪深い人間だと思った。
今思えば、馬鹿げた思い込みだ。
あまりにわたしが沈鬱な様子なので不満げだった母が、しまいにはブチ切れた。寿司には行かなかった。
続く不調で人の視線が気になり、床や地面から視線をあげられない
そうして始まった高校生活で、様々な不調が出た。
中学生のときに発症した摂食障害がぶりかえした。
拒食がある程度続くと、体が耐えられなくなって過食に移行する。太ると周りの視線が気になる。「自己管理のできないデブ」だと、みんなに笑われているような気がした。それでまた痩せようとして拒食になるのだった。
また、IBS(過敏性腸症候群)を発症した。腸内にガスが溜まって凄い音が鳴る。静かな授業中、「音が鳴ってしまうんじゃないか」という不安が引き金となり、更にガスが溜まる。思春期の人間には耐えられないほど恥ずかしかった。「あいつ、すっごいお腹鳴ってるんだけど」とみんなに笑われているような気がした。
わたしはいつの間にか、人と視線を合わせられず、床や地面から視線があげられなくなっていた。
「すっごい上手い」。前の席に座る彼は、私の絵を真正面から褒めた
高校3年生のとき、クラス替えがあった。
その頃にはもう授業の内容についていけなくて、授業中は落書きをしていることが多かった。
「えっ、すげー」
肩がびくっと跳ね上がった。いつの間にか授業は終わっていたのだ。
前の席の男の子が、わたしの手元を覗き込んでいた。
咄嗟に落書きを手で覆うと、男の子は唇を尖らせた。
「なんで隠すのさ。それ、自分で描いたんだよね?」
「うん」
「すっごい上手い」
真正面から褒められて、わたしは頭が真っ白になった。
絞りだした言葉は「全然凄くない。こんなの、ただの落書きだし」という謙遜だった。
彼は高尾くんと言った。
高尾くんは美大を目指しているということを知った。
彼の絵を見せてもらうと、正直当時のわたしよりは下手だったが、力強い筆致には彼の人柄が感じられた。
彼は、それから度々振り返ってわたしに話しかけるようになった。
絵の話から、他愛もない話まで。
最初は強張っていたわたしも、顔を上げて話せるようになっていた。
黒縁眼鏡の奥の彼の瞳はとても大きくて、黒曜石のように黒々と輝いていた。
おどけるときは、わざとらしく見開く癖があった。
お題を出し合って、家で絵を描いてくるという遊びもした。
彼はわたしの絵を、いつも真正面から褒めてくれた。
褒められ慣れていなかったわたしは、いつも「そんなことない」と否定してしまった。
でも家で絵を描いているとき、わたしは無意識にいつも、彼の褒め言葉を想像していた。
今思えば自覚さえ無い、淡すぎる初恋だった。
美大に行かない報告をした日に見た彼の絵は、格段に上手くなっていた
高校3年生の秋。
クラス替えがあり高尾くんとはクラスが別れてしまっていたが、廊下で会えば挨拶をし、一言二言交わす仲だった。
その頃、周りに完全に取り残され、進路が全然決まっていなかったわたしは、美大受験を考えはじめた。
美術の先生に「美大行かないの?」と声をかけられたことがきっかけで、気持ちが浮ついたのだ。
しかし、初めて行った美大のオープンキャンパスで、浮ついた気持ちが粉々になって飛んで行った。
「美術で生きていくと覚悟した人たち」とわたしとの違いを肌で感じたから。
何が違ったのか。言葉にするのは難しい。
あれは実際に行かないとわからない類のものだ。
キャンパスがわたしを拒絶しているように感じた。
美大は行かないことにしました。
そう先生に伝えるために美術室を訪ねると、そこには何人かの生徒がいて、その中に高尾くんがいた。
「よう」と手を振ってくれた。
手元の画用紙には、カボチャが描かれていた。
僅か半年ほどで、彼の絵は目を見張るほど上手くなっていた。
「先生からさ、〇〇も美大目指してるって聞いたけど。なんで俺には言ってくれなかったの」
彼は、わざとらしく目を見開いていた。
「〇〇の絵はホント凄いもんな。上手いだけじゃなくて、感じるものがあるっていうかさ」
「やめてよ」
自分の声の冷たさに、自分が一番ビックリした。
「全然うまくなんかないし、凄くないし」
高尾くんは、目を伏せた。
「ごめんね。俺は純粋に凄いと思って言っちゃうんだけど、あんまり褒められすぎても、嫌な気持ちするよね」
床の模様を見つめ、ついに言えなかった「ありがとう」の5文字
違う。
本当は、高尾くんが褒めてくれて嬉しい。
いつも、本当は嬉しかったの。
ありがとう。
言いたいことは胸の中でつっかえてしまって、ついに出てこなかった。
視線があげられなかった。
ニスの塗りムラでできた床の模様を今も覚えている。
あれからなんとなく、彼とは殆ど話さなくなってしまった。
結局彼が美大を受験したのか、合格したのかも知らない。
当時Twitterのアカウントも教えてもらったが、自分のアカウントを消したときに一緒に消えて、忘れてしまった。
わたしは今も、絵を描いている。
誰かがわたしの絵を褒めてくれたとき、自然に「ありがとう」と言う。
こんな簡単な5文字すら言えなかったのかと思うと、苦しみ抜いた青い時代が微笑ましく思える。