ようやく暑さもなりを潜めて、夜が冷え込むようになってきた10月。冷え性の私は風呂上がりにもこもこの靴下を履いて、洗濯物を部屋干ししていた。
夫婦ともに秋の花粉に弱く、日中も外には干せない。少しでも部屋干し臭を軽減させるため、扇風機を常に回していた。
色物を干したら、つけっぱなしのテレビの前で紅茶を飲んで、SNSをチェックするのが夜のルーティンだ。独身時代から使っているマグカップにティーパックを放り込むと、洗面所のドアが開いた。
夫だ。風呂から出たばかりの彼は、裸足のまま暫く突っ立っていた。
声は掛けなかった。いつも通り彼も何も言わず部屋に戻って、YouTubeでも眺めながら眠るだろうと思っていたからだ。
しかし、いつまで経っても彼は動かなかった。早く1人の時間が欲しかった私は「どうかしたの?」と、努めてゆっくり聞いた。
「別れてほしい」
一瞬、目の前が真っ白になったのを、よく覚えている。続いてじんわり滲んだ視界に「あ、まだ悲しめるほどの情があったんだ」と胸を撫で下ろした。

「もうやっていけない」。同じ気持ちだ、私もただ「もう限界」だった

20歳で結婚して4年。結婚前は燃え上がっていた彼への気持ちはいつしか冷めきり、私は息が詰まる日々を送っていた。
「どうして?」
「これといった理由はない。ただ、お前とはもうやっていけない」
全く同じ気持ちだった。浮気や暴力といった、周りに同情されるような原因はないけれど、ただ「もう限界」であった。
きっと、そんな夫婦は沢山いる。誰にも言えないだけで、2人でいるのにひとりぼっちな気がして、真綿で首を絞められるような日々を送っている。
朝起きて、洗濯機を回しながら弁当を作り、夫が起きる前にパートへ向かって、帰ってきたら夕飯の支度。無言の食卓をテレビの音で誤魔化して、「おやすみ」さえも聞こえない家で、呼吸が上手く出来るわけがない。
ここ2年、言葉なくすれ違ってばかりだったくせに、最後だけ気が合うなんて笑えた。
「私もそう思ってたとこ」
実際には笑えず、声は震えていたと思う。夫の顔が見られないまま、カップにお湯を注いだ。その間に彼はさっさと部屋に戻って、私は本当にひとりぼっちになった。紅茶は飲めずに、捨てた。

過去への自責の念が未来を案じるものに変わった時、肩の力が抜けた

その夜は、枕が濡れるほど泣いた。
もっと話し合っていたら。彼好みの料理を振る舞えていたら。話し上手で毎日彼を笑顔にさせられていたら。もう今更どうにもならない後悔が頭の中をぐるぐる回って、私は私を責めた。
しかし、過去を悔やむばかりの自責の念は、段々と未来を案じるものに変わっていった。
住む場所はどうしよう。パートのままじゃ生活出来ない。親になんて言えばいいんだろう。
それに気付いた時、肩の力が抜けた。
あ。私、やっと死ねたんだ。死んで、今生き返った。
理解した途端、今までの息苦しさが嘘みたいなほど、息が楽に吸えた。

結婚を機に大好きだった仕事を辞め、引越しの際に友人たちとの距離が物理的に広がりなかなか会えず、実家も片道5時間かかるため簡単には帰れない。
頼れるのは夫だけなのに、話す時間なんて消えてしまっていて、溜まりに溜まった心労を吐き出せない。
「仕事だから」
「その日は友達と会うから」
彼はそう言って、いつもドアを閉める。あなたはいいよね、仕事も変わってない、友人たちともすぐ会えて、実家まで車で20分。
「ずっるいなぁ……」
やっと、言葉に出来た。ぶつけることは出来なかったけど、私からしたら充分な進歩だった。

翌朝、目蓋は腫れたけど目は輝いていた。自分でも笑っちゃうくらいに

あなたは何も変わってなくて、家に帰ればあったかいご飯と綺麗に畳まれた服が待っていて、それなのにまるで自分だけが被害者みたいな顔で「別れてほしい」って?
こっちの台詞だよ!
泣き叫ぶように吐き出した言葉を、枕は何も言わずに受け止めてくれた。今までで一番長い夜だった。けれど、一番晴れ晴れした夜だった。
翌朝の目蓋は真っ赤に腫れていて見れたものじゃなかったのに、その下の目は輝いていた。自分でも「良い目してんじゃん」と笑っちゃうくらいに。

今は自分の希望通りのアパートで、時々友人とビデオ通話しながら夜を過ごしている。ひとりきりの部屋だけど、ひとりぼっちだとは思わない。
「顔色良くて安心した」
画面越しの友人に、私は笑いながらジンジャーエールを掲げた。
「酸素いっぱい吸えてるからね!」
あの夜があったから、私は息を吹き返したのだ!